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  映像研究

強風と頭痛

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・202105171719。法定12ヶ月点検のために近くのディーラーに来て約2時間待つ。

 

・待つ時間の幸福。たとえば新幹線で岡山に行く時に3時間半座っていることも、全然違うことだけれども、待つことの幸福があったはずだった。約束よりも大幅に早く待ち合わせ場所に着いてしまった時の感じも似ている。待つことだけに繋ぎ止められた身体があり得た。ふと先週の土曜日には法事のために岡山にいたかもしれないことを思う。この一年半でそうした、あり得たかもしれない出来事の大半は消えて、その中の「待つ時間」も失われた。そうして日々はデスクと業務の繰り返しで過ぎていくけれども、同時に決定的に何かを待ってもいる。ワクチンを待ち、オリンピック(の中止の決定)を待ち、宣言を待ち、解除を待つ。私たちはパーティーを待っているのであって、破局を待っているのではない、と書いてみる。

 

・アイフォーンに「頭痛ーる」というアプリを入れてみて、気圧の高低が示されている線のグラフを目で追いながら、空気の圧力が自分のこめかみのあたり、頭蓋骨を締め付けることをイメージしている。骨はどのように集まり、どのように接続しているのか、気圧の影響を受けて、どのように伸び縮み(?)するのか。数日気持ちよく目覚めることができず今日はとりわけ自分の身体が空気に馴染まない。頭痛は頭部の不調などではなく、その身体全体の信号のようなものでもあるのだろうか。午後に泥のような仮眠。ある種の眠りを泥と表現した人がいた。

 

・ともあれ今日もまた午前中から昼食を挟んで3時間ほどのオンライン勉強会。ナオミ・ローゼンブラム『写真の歴史』、今日は初期写真における肖像の箇所を読む。生み出されたばかりのカメラという機械=道具は、人間をいかに写して/映してきたのか。絵画=肖像から引き継がれる人の姿の捉え方がある一方で、著者によれば、主にアメリカでは、もっと飾り気のない、カメラの機能と人だけがなし得るような、肖像写真が写されたという。写真史とアメリカ史とを並行関係に位置付けるような歴史記述があり得る。歴史とは誰かによって紡がれた記述であるのだということをあらためて思う。

 

・待つことの中に眠りの時間は普通は含まないのではないか。果報は寝て待てとは何を述べた言葉なのか。しかし待つことと見ることとは結びつくのか。今点検が終わるのを待つ自分は、ガラスの向こうの光景を見ている。ガラスに並行して片側二車線の車道があるから、視界を横切る車を見たりする。スクーター、自転車、なども見る。砂糖水の例は何の事だっただろう。見ることに内には変化がある。「見る」と言ったときにはもう「時間」がある。「時間」なき「見ること」はない。写真はある時間の光を留めた物体だから、物体と同じ程度には「静止」している。その静止を見る、という倒錯した行為=経験をしている。流動を敢えて一度物体化して、また流動の中に置く。これが倒錯でなくて何なのか。一枚の写真が置かれた空間は、いつでも、どこでも、世界の流動に巻き込まれつつあり、抵抗しているような、一つのイメージのありようでもある。

 

・明日は気圧が上昇(?)するらしい。明日は丸々一日家で作業をする。明日を待つときは眠る。