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  映像研究

空気について

・202106020931。昨日よりも少し遅れて、しかし昨日の時間をなぞりながら今日が開く。40分で4kmと少し。春と夏の間の曖昧な気候を感じることも貴重だと思う。雨の中でレインウェアを着てランニングをする人には成れる気がしない。しかし歩いたり走ったりすることが日課であることを超えて自分の生活の一部になったならば、もはや気候がどうであれ、歩かずにはいられなくなるのだろう。もしもそうなるのだとしたら、それはそれで面白い。

 

SNSのタイムラインをつるつるしていると、エリック・ロメールの特集上映が行われていることが書かれていて、そうか、そうだ、行きたかったんだったと思い出す。PCで様々な映像を見ることができるが、スクリーンで映像を見ること、シートに座って光を受け止める経験が不足している。ロメールの映画はその経験を存分に味わう上でもっとも相応しいように思える。

 

・と言ってみて、しかし、鑑賞した記憶があるのは『緑の光線』くらいかもしれなかった。それもDVD=ノートPCで。佐藤真の文章で挙げられる『緑の光線』についての記述は、自分が映像について考える上での一つの足場になっているかもしれない。それは流動する世界を流動として記録しようとする動画=映画について考えるための手がかりであると同時に、撮影行為という基礎を介して、写真について考える上でも大きな示唆を与えてくれる。

 

阿賀に生きる』の編集中に一番強く夢見ていたのが、『緑の光線』のふわっとした空気の感覚だった。しかし、憧れて夢見ているうちはまだしも、実際に自分の作品を編集する過程でフィルムの断片に復讐されたり逃げ去られたりしてみると、『緑の光線』の力量のすさまじさに打ちのめされる。『緑の光線』の場合、ドキュメンタリー風の手法が浮遊する空気を捉えきったのではない。映画の空気感に対するロメールの“知”が、たまたま即興を中心にした映画を構想したのだ。

緑の光線』以降のロメールの作品は、最早どこまでが台本に書かれているのか、即興なのか分からない領域に踏み込んだものになっている。脚本で決めても即興で撮っても、空気感が同じように表れてしまうのだ。ロメールはすでに、ドキュメンタリーであるかドラマであるかの問いが無効であるような世界にいる。だから、一見すると軽くて無造作に映るロメール映画と、そこに流れる浮遊する空気には、ただただまいるばかりなのだ。

佐藤真「不確かで脆い空気感」『日常と不在を見つめて ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学』2016、里山社。

 

・作業へ。

 

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