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  映像研究

3月11日

 
・3月11日という日付には特別な意味があって誰もがそのように口にする。それはたぶんずっとそうなのだろう。ちょうど5年が経ってまた2011年のことを思い出す。それにしても本当にあっという間だったなと思う。ちょうど2年前には「2011年の3月11日から3年が経ってそういえば携帯電話の番号以外のすべてが変わってしまった」と言ってみて、さらにその続きの時間は勢いよく流れていく。あらゆる人がそれぞれの5年を過ごしている。当たり前のことに驚き直してみて、いま何を考えているのか。


・データで記録を残すことにほとんど執着しなくなってしまったから日記のようなことを書くことはなくなってしまったけれども、時折ふと思ったことは書き残しておいた方が良いのだろうなと思う。時折ふと思ったことをいつでも気がついたときに自分で読み返すことができて、なおかつ適切に(それが難しい)他の誰かに開いていくことはどうしたらできるのだろうか。ノートに書くか。手紙を送るか。どういう方法が良いのか。考えた方が良いのかもしれない。


・年末に修理に出していたカメラ、ペンタックス67が戻ってきて、リバーサルフィルムを入れてどこかに行くときには撮ってみたりしている。物質としての記録が残るとはどういうことなのか。考えていることをより深く考えてみるために実際にやってみる。それはまたビデオカメラで撮影してみることも同じだ。ここしばらくビデオカメラで記録することとはどういうことなのか、考えてみるようなワークショップのような、授業の実験のようなことに参加していて、そこで考えることも多くある。映像で記録を残すことについて今は考えているのかもしれなかった。


・やや強引に考えていることを接続させようとしてみたならば、しかし今考えていることはその2011年くらいの続きにあることなのかもしれなかった。2014年のはじめにまとめた文章が、ちょうどこの備忘録を書きはじめた2007年から2011年くらいの間に、見たこと、行った場所、過ごした時間、生活を材料にして書いたのだったならば(そういう実感がある)、これからまとめようとしている文章は2011年くらい以降に自分が心を動かされた事柄が材料になるのかもしれない。そう考えると、誰のためのものでもなく、あるいは他の人と共有するためではなく、自分にとっての時間軸が少し整理されたような気もする。


・年が明けてから満を持して(?)ジェフリー・バッチェンという人が書いた写真についてのテキストを読んでいて、そこで書かれていることは必ずしも、デジタル/アナログ(銀塩)ということが主要な題材ということではないけれども、いずれにしても古い写真を見てみて、その「記録すること」を捉えなおしてみような、そういう仕事にすっかり入り込んでしまっていた。知っていればきっと行ったはずだった(でもその時はそういう感覚がはたらいてなかっただろうからスルーしてしまったかもしれない)IZU PHOTO MUSEUMの『時の宙づり』展の図録というか本を読んでいて/見ていて、あらためて「写真」という極めて特別な、図像の表され方について考えるようになった。


・「記録をする」ということにはどんな感情があるのか。そこにはどんな人と人との関係が存在しているのだろう。写真は物体だからそれ自体では変化しないということにはどういう意味があるのか。あるいは写真は物体だからこそ(肉体と同じように)緩やかに朽ちていくということにはどういう意味があるのか。写真の表面は津波にさらわれて溶けることもある。どこからがその写真で、どこからが写真ではなく一枚の紙に戻っていくのか。それは人間が図像を認知することとはまた別に基準があるのかもしれない。あるいはデータはある日突然壊れる。物も壊れることがある。その「壊れる」の意味は違うように思うけれども、ではどう違うのか。


・生命のその「生」あるいは「生成」について考えている(考えていた)ことはそのまま、その肉体あるいは物体のありようとその消滅の仕方について考えることに接続される。物体は物体であるからある日突然消えることはできない。そういうことをどういう回路で辿ればある道筋が作れるだろうか。そんなことを考えている。