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  映像研究

趣味

・202102172002。帰宅する京王線で何事かを書いておいても良い。午前中は家で作業、のつもりだったが昨日の一日会議の余波的な疲労(必ずしもダメージではない、むしろ意識のはたらきが熱を持ってしまっているような感覚)により、机に座り文章を読んだり書いたりすることが出来なかった。NHKオンデマンドで『ファミリーヒストリー広末涼子の回を視聴する。ブランチのお供に少しだけ、と思ったが、あまりにも面白く全て見てしまう。自分と同年代の人のファミリーのヒストリーだからだろうか。祖父母の写真の、両親の写真の、幼い自分の写真の、それぞれの映像の質が近しく感じられたからだろうか、地理的に自分の来歴とは全く重ならないのだけれども、同じ時空間に生きてきた/そして生きている、という感じがして、カタルシスの波に飲まれる。午前中に感じる種類のカタルシスではなかったなこれは失敗だったと思いつつ、呆然としながらも午後から職場へ。事務所の配置ががらっと変わっていて新鮮。次年度に向けて動き始める一日。人の話を聞き、会話をする一日だが、そうか、それぞれの人の背後にはファミリーがありヒストリーがあるのだななどと思うから、言葉の意味が無駄に(?)増幅されてしまう。さらに年度の変わるタイミングでの異動などあり、ますます増幅される。この蠢きが春だった。

 

・仕事の引き継ぎにおいて、長く同じ職場にいる方が「これは趣味みたいなものですから」というようなことを言い、その意味での「趣味」というニュアンスが、いま思い出している自分の内に残っている。それを別の文脈では「やり甲斐」などと言うこともあるのだろう。自分はこの「やり甲斐」という概念をどう自分の、考えと、生活と、信条と、関係づけるか、どのように位置づけるか、ということを、つねにではないにせよ、考え続けてきたのだろう。他の人と同じように。あるいは、他の人とは全く違うように。自分はこの労働に纏わるコミュニケーションの内に、何か重要なテーマや、メッセージや、ガイドがあると考えている。そしてそれは継続することで、少しずつ「読める」ようになる。それは、たしかに面白いことであるとも言える。しかしそれを労働と考えるならば、いつか誰かに引き継ぐことになるのだろうか。この発想も春らしい。