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  映像研究

言葉について

・後から書く日記。職場から帰りの電車は日記を書く気持ちにならない。別の場所で別の書き方をしている。綺麗に負荷なく同じ速度で運動して居るつもりでも少しずつずれてくる。反復の中にある差異。ローザスのダンスを想起した。気づけば別の言葉を書き読んでいる。西田幾多郎という人について、西田幾多郎の思想について、午前中読む。100年前に書かれた、自分にとって新しい概念を読み、翻弄されながら、知らないことに触れる。そういえば今日は言葉について考える一日だった。

 

 

・業務を終えて電車に飛び乗り最寄駅のスーパーでやや買い物して帰宅。仕込んであったチキンラインを盛り付けて家族と夕食。乾杯とともに小沢健二「キツネを追ってゆくんだよ」を鑑賞。開始時間が22:00なのは、このような人たちの生活を想像してのことだろうかと考える。見て、聴きながら、それぞれのパートで色々考える。後半の「編集」と「ゼロから一へ飛ぶ力」の部分、特に「あ、これを写真に撮ろう」のくだりが自分にとっては良かった。深夜に光が灯った。

 

・「編集(すること)」と「ゼロから一へ飛ぶ力(創造)」とを違うこととして考えてみる。考えたとき、では「写真を撮ること」はどうか。それを創造として捉えること。さらに言えば「見ること」が創造であると、どうすれば書けるか。これは自分の課題だった。

 

・そういえば偶然か何かわからないけれども、午後に京王線を待つホームで「ああ、ほんとうに言葉って大事だな」と考えていた。人が生まれて言葉を話すようになり、雑な言葉も手当たり次第に使ってみるような時期を多くの場合経て、また多くの場合、社会生活を営む上で必要とされる言葉をインストールされ、さて、言葉はどうなるか。一方で、自分の周囲にいる人たちは例外なく本当に言葉が凄い。自分などはその友人知人たちの言葉をずっと聴いているだけで良いと思ってしまうけれども、そのような中で自分の言葉は鍛えられてきた。思い出すのは教育機関とも研究機関とも関係のない場所。

 

・そしていま自分が業務を行う上で必要とされるのは、いかにして言葉を育てるか、という問題に集約できるだろうか。上手(かみて)に視線が集中しているときに、下手(しもて)にスポットを当てるような言葉を発したい。

 

・その業務の中で。今日の業務は完全に気が抜けていて、どれくらい気が抜けていたかと言えばmacbookを自宅に忘れたせいで、進めるべき準備を一切進められなかった。のみならずイベント撮影業務の準備に遅れ、アシスタント・ディレクターのようなこともほとんどできず、ただイベントに参加する。そしてそのイベントでもまた、言葉について話される。「言葉にできないから作っている」ということを本当に言うためには、徹底的に言語化しなければ、何が「言葉にできないこと」なのかわからない、という話が学生に語られている様子を、教員の側から、学生の側から、その外側から、聴く。

 

・言葉はどうなるか。社会的に特に大きな変化がない自分が、確かに時間を過ごしたと思えるのは、たとえば10年前とは全然違う言葉を話していることに依る。その変化に気づくことで、過ぎた時間を肯定できる。時々ならばささやかに祝福することすらできるかもしれない。一つの文章や言葉を、全然違う深さで読む事ができるようになることを知ったのは、ひょっとするとこの3年くらいなのではないか。だから厳密に言えば、同じでもあり、違いもする言葉を、話し、読み、書き続けている。