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  映像研究

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・202010302125。季節の変化を体感するのはいつも京王線笹塚駅のホームだった。冷たい風が体にぶつかる。身を硬くして時間が過ぎるのを(乗る電車が到着するのを)待つ。そういう時間が一年の間に時々訪れることを思い出した。

 

・家の近くの田んぼでは稲刈りが終わり干されている。いくつかの田んぼの脇を自転車で走る。そういえば直接見ることはできない友人の生活や活動を、今朝届いた野菜から想像した。段ボールの箱に詰められた野菜からは無数の判断を読むこともできる。同時に野菜自体には人の判断が入る余地のない部分もある。それを自然と言っても良いのだろうが、形容詞なのか、名詞なのかもわからない。自分が「わからない」と思うのは、それを分析しようとするからなのか。作っている人は「わからない」ことは何もないのだろうか。あるいは「わからない」という言葉を解体して、その続きを語ることができるのだろうか。

 

・今日は「見ること」と「読むこと」について書かれた文章をいくつか読み、自分もまた、自明と思われている行為あるいは身体の体勢である、この「見ること」と「読むこと」について考えた。表情を読む、空気を読む、というような時の「読む」とは、どのようなことであるのか。課題を出しながら自分が一番学ぶという姿勢でいたい。

 

・同僚と本の読み方について話していて、自分はこの数年で「黄色の蛍光ペンで線を引きながら細いフィルムのポストイットを貼る」というのが基本になった、ことを客観的に考えた。線だけ引きポストイットは貼らないこともあるが、ポストイットは貼っても線は引かないこともある。線を引きポストイットも貼ることもある。その組み合わせで、自分にとっての本の言葉の読み方が変わる。

 

・この読み方の元になっている(?)イメージは、ドラえもんに出てきた「暗記パン」というひみつ道具で、黄色い蛍光ペンで印刷された文字をなぞるとき、自分はそれを食べている。食べるように自分の内に取り込むことに一番近い行為が、黄色い蛍光ペンでなぞることであったという表現もできる。一方で、ポストイットは「美味しそうな部分」の目印として、旗を立てるように頁に置く。文章には美味しい部分がある。濃縮された旨味のような箇所が、それがもしも良い本ならば、波のように押し寄せる。その旨味を舐め取るように黄色い蛍光ペンで線を引く。

 

・数年その方法で本を扱っていると、目で言葉を追いながら、蛍光ペンで線を引くこともできず、ポストイットも貼ることができない状況は、美味しそうな食事を前にして、見ることしか許されない、ほとんど拷問のように感じる。なお、蛍光ペンは調布の勝文堂で100円で売られているものが一番調子が良く、フィルム素材のポストイットダイソーなどで売られているものがよい。