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  映像研究

金曜日、振り返る

・202004171116。昨日は結局一日チャットワークに張り付いていたら終わった。これがリモートワークなのだろうか。連絡・報告・相談が絶え間なく流れるタイムラインを追いかけながら、適切なタイミングで流れに石を投げる。言葉を投げることが仕事だった。現在佳境に入っている業務において、自分のポジションは「制作進行」「制作管理」というような者で、そういえば20代半ばに映像製作の仕事(の真似事)のようなことをしていた時にはディレクターとプロデューサーの違いもよくわかっていなかった。現場にふらっと現れてうなづいたり、会議でぼんやりしたことをつぶやきつつ、なにやらずっと電話をかけている人の名刺に「プロデューサー」と書いてあることを不思議に感じたが、今の自分の仕事の一端はそのような事であることに驚く。「見守り」「連絡し」、何かあれば「説明し」、「報告し」「お願いし」、時に「謝り」、部分的に「責任を取る」仕事だ。何かを作ることに関わっているが、絵と絵を繋げたり、言葉によって何かを表現しているわけではない。自分の仕事を客観的に考えるのは春という季節のせいもある。

 

・そのような業務の合間に本腰を入れて研究の作業を進められるはずもなく(言い訳)、友人にお勧めされた本、清水穰『デジタル写真論 イメージの本性』が届いたので冒頭部分を読む。冒頭のインタビューは『エクリヲ』で読んでいた。ポストイットを張りながら再読。このリモートワーク的な環境において「デジタルイメージ」の問題はまた一層深まるだろうか。デジタルイメージを介してコミュニケーションをとりデジタルイメージによる広告を制作した結果、デジタルイメージによる購入を経て、デジタルイメージによる授業が行われる。「何をリアルと言うのか」などという問いではフォローできない。同僚がタイムラインに投げた「オンラインという単語が崩壊してきました」という感じ方と写真の問題はいかに接続されるか。ある現実の一側面が肥大している。そしてまた並行してマイケル・フリード『Why Photography Matters as Art as Never Before』を部分的に読む準備。リハビリとして。

 

・夜はスペースシャワー『スチャダラパー30周年』の番組を見ながらつい飲み過ぎてしまった。そういえば自分は、10周年の赤坂ブリッツ、20周年の日比谷野音にも行っていたということを思い出し、スチャダラパーのディケイドで自分の生活の変化を考える。2000年。2010年。2020年。その点と各点の間に引かれた線的な時間。線の中の淀みと雪達磨のように転がりながら大きくなる物。物凄い時間が流れたようにも思うが一瞬のようにも感じる。「とにかくパーティーを続けよう」のくだりは、何かを(とにかく)続けている者が発することにおいて、当初発せられたニュアンスとは別に、特別な重みを持って聴こえる。それを最初に実感したのはハローワークスのブギーバックのカバーの時だった。それは2007年。自分にとっては日記を書き始めたのが2007年でもあるから「とにかくテキストを続けよう」と言ってみたくもなる。給料日を音楽にした『EVERY SINGLE DAY』に何か熱いものが込み上げた2007年からも短くない時間が流れたことを思う。

 

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