&

  映像研究

読書のメモ・分厚い本を読み通す備忘録

 
・分厚い本を読み通す。ここしばらくずっと鞄の中に入れていて「1日50ページ」を目標に進みつつ戻りつつ浮気しつつ読み通した本は柄谷行人という人の『世界史の構造』という本で、約450ページか…がんばった…かも。がんばらないと読み通せない本を読み通したことが久しぶりの体験だ。それはちょっと良い。まったくジャンルは違うけれども(驚くべきことにまったく違うわけでもない)「本を読む」ことについての物語と言えば高野文子の『黄色い本』のことを思い出したりもする。普通に生活している中で(その普通の生活というものがよくわからなくなりつつある中で)電車に乗ったタイミングとかで本を開いたならば「交換様式Aの高次元での回復」であり「アソシエーショニズム」の世界へ行く。そうして目的の駅に近づいて本を閉じふと視線を上に向ければ「週刊SPA」であり「アイドルグループの総選挙」の世界に戻ってくる。そういう日々がある。



・図書館の本なのにポストイットを貼り付けまくってしまったので剥がすのが少し寂しい。これからポストイットを剥がしつつ気になったところをメモしておこうと思う。そうして本に書いてあった具体的な記述のことは基本的にはすっかり忘れる。「M-C-M'」とか「アダム・スミスという人はそんなに悪い人ではないのかもしれないと思ったこと」とかはすっかり忘れてしまう。それでもまたいつかふとしたときに「世界システムX」のことを思ったり思わなかったり、これがまさにXかもしれない、と感じたりすることもあるのかもしれない。そしてそれはあまり遠くないのかもしれない。



 たとえば、社会運動の中核は、労働者から消費者や市民に移った、という人たちがいる。しかし、何らかのかたちで賃労働に従事しないような消費者や市民など、不労所得者(利子生活者)以外には存在しない。消費者とは、プロレタリアが流通の場においてあらわれる姿だというべきである。であれば、消費者の運動はまさにプロレタリアの運動であり、またそのようなものとしてなされるべきである。したがって、市民運動であれ、マイノリティやジェンダーの運動であれ、それらを労働者階級の運動と別のものとみなすべきではない。


 資本は生産点においてはプロレタリアを規制することができるし、積極的に協力させることができる。ゆえに、そこでの抵抗は非常に困難である。これまで革命運動において、プロレタリアによる政治的ストライキが提唱されてきたが、それはいつも失敗してきた。しかし、流通過程において、資本はプロレタリアを強制することはできない。働くことを強制できる権力はあるが、買うことを強制できる権力はないからだ。流通過程におけるプロレタリアの闘争とは、いわばボイコットである。そして、そのような非暴力的で合法的な闘争に対しては、資本主義は対抗できないのである。


 マルクス主義者は、マルクスプルードンを批判したため、流通過程における対抗運動を軽視してきた。しかし、労働者階級が自由な主体として資本に対抗して活動できる場はやはり流通過程にある。それによって、資本が利潤追求のために犯すさまざまな行き過ぎを普遍的な観点から批判し是正することができる。のみならず、それによって、非資本制的な経済を自ら創り出すことができる。具体的にいえば、消費者=生産者協同組合や地域通過・信用システムなどの形成である。


 マルクスがその限界を指摘したため、協同組合や地域通貨、つまり、資本制社会の内部においてそれを脱却しようとする運動は、否定されないまでも、軽視されてきた。しかし、たとえそれによって資本主義を超克できないとしても、資本主義とは異なる経済圏の創出は重要である。それは資本主義を越えることがどういうものかを、あらかじめ人びとに実感させる。


 生産過程における資本への対抗がストライキであるとしたら、流通過程における資本への対抗手段はボイコットだ、と述べた。例えば、ボイコットには二通りある。第一に、商品を買わないことであり、第二に、労働力商品を売らないことである。だが、そのためには、そうしないで済む条件を創らなければならない。つまり、非資本主義的な経済圏が存在しなければならない。


 資本は自己増殖することができないとき、資本であることを止める。したがって、早晩、利潤率が一般的に低下する時点で、資本主義は終わる。だが、それは一時的に、全社会的な危機をもたらさずにいない。そのとき、非資本主義経済が広範に存在することが、その衝撃を吸収し、脱資本主義化を助けるものとなるだろう。


 (『世界史の構造』第4章第2部「世界共和国へ」1資本への対抗運動 p439-440)

・「たとえそれによって資本主義を超克できないとしても、資本主義とは異なる経済圏の創出は重要である。それは資本主義を越えることがどういうものかを、あらかじめ人びとに実感させる。」「早晩、利潤率が一般的に低下する時点で、資本主義は終わる。だが、それは一時的に、全社会的な危機をもたらさずにいない。そのとき、非資本主義経済が広範に存在することが、その衝撃を吸収し、脱資本主義化を助けるものとなるだろう。」というところがとても良かった。自分は「資本主義が本当に終わるのかどうか?」に関しては「わからない」「きっといつかは終わるのだろうな」と思うだけだ。しかし上記の部分を読んだならば、とりあえず「『資本主義とは異なる経済圏』ってあれのことかな?」とか「もしかするとこれもそうかな?」という想像力がはたらく。誰かが今日もどこかで「資本主義とは異なる経済圏」を存在させようと、そしてそれを広範囲に拡げようとしていることもわかる。そのことを知ると安心する。



・そしてまたこの書籍を読んで良かったのは「社会の変化は一瞬ではないのかもしれない」けれども「それは、いつも、つねに、起こりつづけている」と思うことができたということで、そう思えることができたならば、とりあえず現状はそれで良い。たとえばある実践がどれくらい続けば成功か、などと審判したり、批評することは、いつも、つねに、きっと、大体、まったく意味がない。大澤真幸という人が『社会は絶えず夢を見ている』という書籍で「革命は、革命を許す審判を待っている限り決して始まらない/なぜならそれは「審判をする」存在自体を取りかえることだからだ」というような意味のことを書いていて(多分)その部分に自分は完全に同意して(そしてぐっときて)しまったけれども、それはまた自分の中にある「審判」や「批評」を手放す想像力をはたらかせられるかどうか、ということでもある。



・日曜日の行けなかった紀伊國屋ホールでのシンポジウムで、どこまでほんとうかわからないなりに、行った人から聞いたり、その後の「まとめツイート」で書かれていて、思わず読んで爆笑したのは、柄谷行人という人が「自分がデモ行くことをとやくかく言う人がいるがまったく気にならない。そもそも自分に何か言えるくらい頭の良い人はいない」という発言をしたらしいということで、自分はそれを間接的に知ったのだから、そのようなアーティスティックな発言を、真顔で言ったのか、半笑いで言ったのか、叫んだのか、つぶやいたのか、どのようなジェスチャーで口にしたのか、振り返りざまに親指を立てて言ったのか(理想)、それぞれ面白さの質が変わってくるけれども、基本的には完全に良いと思う。その良さはロック・スターを仰ぎ見るような良さであると同時に、しかし究極的には「世界中のすべて人間がそのように思えば良いのになぁ」という良さでもある。「世界中のすべて人間がそのように思えば良いと思っていることを、差し当たって自分からやってみる」という良さでもある。



・『世界史の構造』の上記の引用部分から色々なことを考えたけれども、その中でひとつ「買うこと」について考えてみる。「働くことを強制できる権力はあるが、買うことを強制できる権力はないからだ。」という部分に関して。「買うことを強制できる『権力』」はないのかもしれない。しかし「買うことを強制できる『システム』」は存在しているのではないか。それはマス・メディアであり、広い意味での「広告」であると思う。もしも「広告」が「広く知らしめる」という意味であろうとも、その中にも何か良いものがあろうとも、しかし必ずその外側はある。むしろ「広く知らしめる」の反対にあるものは、ひとりひとりの内側にひっそりとある。「表現」も「言葉」も、本当は「広く知らしめる」ためではなく、自分の中にひっそりとある。コミュニケーションの道具、とかではなくて、もっと確かに、自分と共に在る。



柄谷行人という人の、その素晴らしく振り切れた発言をカルチャーというレイヤーにおいて変奏してみたならば「自分がこれこれこういうライフスタイルであることをとやくかく言う人がいるがまったく気にならない。そもそも自分に何か言えるくらいお洒落な人はいない」となる。それは最高だ。そして誰もが誰か、あらゆる広告の言葉を一度忘れて、食べることも、住むことも、遊ぶことも、何かを好きになることも、自分で決めて、自分で選んで、なおかつそこで出会う偶然も受け入れながら、お互いのお洒落さを認め合いながら、気の合う人たちと、あるいはたまたまそばにいた人たちと一緒に楽しむための何かを始めるしかない。自分の中にひっそりとある「表現」や「言葉」を交換するための場をつくるしかない。あらためてそう思う。