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  映像研究

10年

・202010112135。日曜日の業務はイベント仕様。光の速度で12時間が消滅した。同僚チームと健闘をたたえ合い、しかしご時世的にあるいは完全に疲れが一線を越えたために乾杯の場へ移動することもなく帰路。移動する京王線で「10年」について考えても良い。

 

・業務の最中に、ある出来事の重要性を判断する基準として「10年後でも覚えているかどうか」と思いつきで言ってみてしかし、現実にはたらいている記憶が何を覚えていて何を覚えていないのかはコントロールできない。些細な断片が突き刺さるようにして残ることもある。

 

・山に登ることは、その出来事自体の快楽とは別に、ある時間を具体的な場所に刻むことができるという機能があるように思う。場所は基本的には動かずつねにそこにあるからこそ、移動し続け変化し続けている存在が一瞬定着される。アルピニズム(頂上主義)を相対化する思考としてのトレッキングやバックパッキング(アスリート的なものからエクストリームな方へ)は納得でき馴染み深いが、一方で、頂上それ自体がある固有の意味を創り出すこと自体には興味がある。無造作を装っているスナップショットよりも集合写真の持つ、味わいに惹かれる。

 

・いつか今の研究が一つのまとまりを作れたならば、次は山岳写真について、それを対象とした研究を構想してみたい、という話をそういえば先日初めて友人に話した。山という存在と、山についての思想と、写真という媒体にどのような線を引けるだろうか。その関係からどのような人の営みが見て取れるだろうか。

 

・10年前は2010年で、2010年という時は自分にとっては「山」と切り離すことができない。全ての判断に山が浸透していたように記憶されている。なおかつ「山と街のあいだ」と言ってみて、つまり、自分の生活と「山」をどのように接続できるのかと考えを進めていたようなのだ。その過程で、たとえば「農」についても考えたのだろうか。いま、もう一度そのことを思い出して、自分の生活を考え直そうとしているかもしれない。