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  映像研究

大気の状態が不安定です、と聞いた

 
・夏が進行している。進行している夏に対してそれと同じだけの速度が必要であるような今。何事かを効率よく進めなければいけない。そういつも思っているほどにつねに遅れている。遅れ続けている。何とか間に合わせている。何とか間に合わせることで何とかそれらしく過ごしているものの、その先のビッグ・ウェーヴを前にしたならばきっと飲み込まれてしまうだろう。前にも記したように『文化系トークラジオLife』というラジオ番組のpodcastを聞いていて、その一番新しい回のテーマが「忙しさ」だったことから、色々なこと、自分の生活や、自分の周りの人の生活、そしてこの数年の生活している感じの変化について考えた。今から6年ほど前(!)になぜこのような備忘録を書き始めたのかといえば、それはもちろん圧倒的に暇だったからだった。そしてそれから少なくもない時間が流れた結果、音楽を聴く暇も、本を読む暇も、テキストをエディットする暇もなくなったということなのか。なぜ2008年には毎月のように山登りに行けて、外食しまくって(それもまたミーティング)、更に本を読みながら昼寝をして、なおかつ備忘録を頻繁に記すことができたのか。過去は暇と退屈とともに美しく思い出されているだけなのか。


・「労働」というものが時間と場所を際限なく埋めつくしていくような感覚を手がかりにして、その2008年くらいに何事かを考え始めたのかもしれなかった。そしてそのような各種労働の外側に、山の方角を指差すような意識があった。まったく偶然のように思ったけれども、考えてみればそれもきっとある時代の巡り合わせとともにあったような意識によって、山に登ると誰かに会った。今、山はどうなっているのだろう。山はどの山も変わらずに(あるいはもちろん微細な変化を続けながら)存在しているし、そこでは季節がいつも同じように(あるいはもちろん微細な変化を続けながら)巡っているのだと思う。この間探している本があって初めて行った代官山蔦屋書店で購入した『OFF SEASON』という新聞のような冊子にはソローの記事が書かれていて、そのようなものを読むと、また『森の生活』のようなことが頭をよぎる。あるいは本屋でぱらぱらっとした『2nd』という雑誌は、前にぱらぱらっとしたときと同じように各種ギアがカタログ的に掲載されていたけれども、そのようなものを見ると/読むと、今、山なるものが、どういった事として捉えられているのか、少し感触を掴めるように思った。今それに対して良いとか良くないとか言うことも思うことも難しいけれども。


・「自然」とはなにで、またどういうことなのか。例えばそれぞれ色々にあるエコロジー的な運動を知るたびに、多くの場合そこから学べることを見つけながらも、しかしいつも「自然」は自分の外側にあるものではないと思っていたから、運動としての目的について考えることとは別に、考えなければいけないような材料が増えていった。それは人はなぜ山に登りたいと思ったり、植物を育てたいと思ったりするのかということで、それを癒しであるとかパワーなスポットであるとか言うのはおしゃれではないということは多くの人が思っていることとはいえ、しかしむしろ本当に癒されたかったり、力(?)を必要としているのならば、それはどうしたら良いのか。山に行くことの色々な場面を思い出してみたならば、風景を見ること、歩くこと、別の時間のサイクルを持っているもの(植物、鉱物、天体など)を知ることなどがある。そしてそれらを言葉ではない方法によって知ることは面白く、そしてそもそも言葉ではない方法によって「知る」ということがあり得るのだということを(言葉によってではなく)わかるということも面白い。山に行くこととはそのような体験であったかもしれない。


・生きているものの生きている様子を見続けることによって、人は「分割できない」ということがどういうことなのか、わかることができるかもしれない。そこに時間のような、言葉のような、因果のような切断を導入するのは、あくまでも任意なのだと思う。だからそこでは狭い意味での「人工/自然」というような対立は意味がなくて、世界それ自体がひとつの変化し続けるプロセスなのだというような意味のことを、例えばベルクソンという人の書いた文章に読むことができると思った。あるいはベルクソンをなぞりながら別の問題へ敷衍していくドゥルーズという人の書いた文章にも読むことができると思った。そしてそのようなことを、自分は例えばあるときから白黒写真を拡大したときの粒子のようなものとして(人間と空気と物と別の人間と…が粒子の変化によって緩やかに繋がっているようなこととして)イメージしていたけれども、一方日常的な空間の中で自分が存在している環境をそのようなイメージとして捉えることは難しい。駅前のコーヒーショップの椅子と、コーヒーと、ノートパソコンと自分が緩やかに繋がっていて…とかはあまり考えづらい。だけれども、山に行って、動きながら、時間を過ごすことによって、そのようなイメージも具体的なことと思える。そして山から下りてもそのことを(少し)覚えている。そして全然山とか書いていない本の中の「一元論=多元論」とかいうフレーズを読んだときに何かを思い出すかもしれない。そのようなレッスンとしての山行。


・木を見て森を思う。(中断)