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  映像研究

朝さん

・202008141009。今日は業務が「朝さん」(朝いちでも朝にでもなく11:30くらいに出勤する、それはもう昼なのではないかと思うが、やはり少し心もちが違う)からだったから、勉強の時間と場所と涼しさを確保するために調布の猿田彦珈琲にinしてみた。お盆休みなのだろうか、開店と同時に駆け込むように人の列。引き続きディスタンスを気にしながらコーヒーとスコーンを注文してみる。

 

・気づけば2月以降毎日(遅れて後からということもある)日記を書いている。2月中旬から業務の研究休暇的な期間に入り、怠けないためにもとりあえず記録しておこうと思ったのは2月後半くらいまで。3月に入ってからは別の意識が動き出す。ウィルスの拡大によって自分の生活がどのように変化し、また変化しながらも在り続けるのか、そして自分の視点から社会の変化をどのように記述できるのか、そのような考えとともに「何もない」と思われるような日々も記録してみることをはじめて、継続している。そもそも2020年の元旦には、五輪とは別の方法で2020年を何か特別な一年にしようと考えていた。何が言いたいかというと「こんなことなら1月1日から毎日書いておけばよかった」という謎のコンプリートの欲望について。続いているものは突然終わる。突然終わるまでは日記を書いてみようと思っている。

 

・オペラギャラリーの『ドレスコード?』展を鑑賞して、その展示自体にも考える感じるところはあったのだけれども、会場を出て、ミュージアムショップに入り、関連書籍のコーナーをぶらり、都築響一という人の『着倒れ方丈記』という本を手に取り、ぱらぱらする。それは特定のファッションブランドの服や鞄や靴を集める人の住まいと肖像を写したシリーズだが、作品としてのあり様以前に、その写真から感じる生活の雰囲気に惹かれた。写真自体には、あるいはそれをシリーズとして作品化することには、その生活や考えに対する批評的な眼差しが読み取れるものの、同時にしかし、その場所には凄みを感じる。都築響一という人の仕事を見るといつもそういう意味での引き裂かれを体験する。何が言いたいかというと「自分も何か一つのブランドの服を集めた方が良いのだろうか」という謎のクラスタ(この言葉は全然違う意味になってしまった)になりたい欲望について。この話を起きて数分で家族にしたところ、やんわり流される。

 

・「趣味が欲しい」という話だった。あるいは「お金を使いたい」という話だろうか。しかし必ずしも「物が欲しい」ということでもない。

 

・「研究」という活動を、自分ののろい速度で一応は継続していて、本を買い、作品を見る。それは業務の下準備や資料集めとも通づるのだから、生活の全てはそのようになっている。一方で、もう一つこの生活を別の角度から切り出すような視点を設定できないものだろうか。かつての「山」はそのような場所であり思想であった。あるいは数年「土」のある生活をしていたときには、その有り難さ(文字通りの「有る」ことが「難しい」状況)に気づかなかった。いま山に行くことのない、土に触れることのない生活の中で、人間以外、あるいは人間が作り出したもの以外の、何を信じればよいのだろうかと考える。「特定のファッションブランドの服や鞄や靴を集める人」に感じるのは、ソフトな信仰のような雰囲気で、どこかでそれに惹かれる。人間という存在と信仰が深く結びついていることを理解できる程度には育った。

 

・何か「気の迷い」を書いていると思う。何周かしていくつかの渦から弾き出されて(飛び出して)なお、自分は同じ/違う欲望を持っている、と思うことがある。その表現を変えながら。随分と手前の場所で書いている。

 

・それでもこうした違和感を違和感のままに言葉にすることは必要と思う。「グローバル資本主義がこの星を覆い尽くす」と批判的に考えることを経て、2020年の現在を何と見るか。あるいは現在の何を見るか。ひとつの「生活様式」が身体と精神に浸透しつつある中で、思考を継続するためにこそ、「もう一つの視点」について考える夏の朝。