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  映像研究

2018年の夏、郊外型商業施設のドトールコーヒーにて

 
・朝起きた。風邪はほぼ全回復。車で向かった中央図書館は休館日。仕方がなくて二日連続で某チャンフォーのドトールコーヒーにinする。あれ、こういうこと前にもあったなと思って去年の備忘録を確認したところ、20170828、全く同じ流れで同じ場所にいたことを知る。考えることは変わらない。書いている内容もさして変わらない。これも積み重ねだと思うことにした。


・久しぶりに月一の勉強会を主催する方から連絡あり。何かが再開されて、集まる人たちと再会することは嬉しい。こうして秋の予定が少しずつ見えてきそうになるが、まだもう少し…待ってくれ…、と思うのは宿題が終わっていないことと、各種準備ができていないこと、そして夏らしい遊びが足りないことなど。いつもこのようだ。追われている。


・手に取ったのは清野賀子『至るところで 心を集めよ 立っていよ』で、久しぶりにそれを見た。自分が毎日ではないなりにカメラを持ち歩き、つまり日常的に写真を撮ることを再開して2年くらいになるが、全然撮る感覚に面白さを感じられない。何か知ることができるのではないかと思って撮っているが、全然わからない。集中もしないし、何が撮りたいのかもわからない。正直に言えばあがってきた写真を見ても、あまり気持ちを動かされない。ただ記念写真は撮りたいし、それはデジタルでは嫌なのだ。実体で残さなければ、という意識だけで撮っている。いつかその行為が別の感覚に繋がることはあるだろうか。わからない。


・この夏は業務の合間に大型カメラについてのムックも購入してみた。いつか大判で撮影をしたいと思う。もうそれくらいしか、自分が写真を撮る行為にときめくことはないのではないか。そんな気持ちもあるのだ。残された生の中で出来る限り多くのイメージを残したい。そして、誰がその写真を、見るのだろう?という疑問が浮かぶ。どんどん「テーマ」とか「コンセプト」のようなことから遠くへ、そのような言葉の圏域から遠くに行って、もう戻ってこなくても良いように。


・家という箱とカメラという暗箱について。住む場所が定まらないことと写真について思うこと。カメラを抱えて歩くことが許される街。撮影することに値する場所。イメージとして残したい世界。見ている感じている対象と自分の距離について。その世界の在りようを幾多の視点から見ようとすることがスナップショットであるならば、それを他者に見せることは「私はこのように見ています」ということであるだろう。


・コマーシャル・フォトという雑誌で見た、シャーナ・オズボーンという人のイメージはフィルムでも高画質デジタルでもないビデオの質感で、それに懐かしさを感じるのだし、確かにこのような方法で「私はこのように見ています」という人もいるのだろう。それは理解できる。しかしその一方で「現実をもっとよく見てみたい」という欲望(欲望と言って良いのだろうか?それが適切なのだろうか?)は、設定されるべきではないのか。ビデオの質感は高画質デジタルでは「見えない」何かを見えるようにしようとしている、ということなのだろうか。記録とイメージについて、そうして考えなければいけない。


・大切な休日だった。書くために中断。