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  映像研究

日曜日

・202004120944。朝食シャワー洗濯して今。日記を読み返すと最後に職場に行ったのは7日だったから今日で在宅業務5日目。慣れない。慣れないというか新年度の不確かさもあり過剰に用意としてしまうことと多分全然足りてないところがあるはず。そして何よりも業務と研究を区切ることが難しい。もう少し業務が軌道に乗ってきたならば「今日は業務」「今日は研究」というふうに決めることもできるのだろうけれども。同じような日を過ごしていると「あれをしたのが昨日なのか一昨日なのか」がわからなくなる。

 

・うっかり気を抜くと業務も研究も語学も滞りすぐに契約しつつある車のことを考えてしまう。その姿を少しでも見たいと思いつい検索してしまう症状は恋。あるいはまた車についての文章を読み慣れないから新鮮でつい読んでしまう。たとえば自分が契約しつつある車について書かれた「ステアリングは電動アシストの二代目よりも油圧アシストの先代の方が重い。だがその手応えが妙にスポーツカーライクで剛性感があり、インフォメーション性も高いから安心して走りを楽しめる」という文の「スポーツカーライク」「剛性感」特に「インフォメーション性」という言葉の響きはなんだろう。自分の知らない領域で価値や楽しみや奥深さがあることを知った時の新鮮さ。それは10数年前に山登りを始めた時の感じと似ている。

 

・恋から現実に戻る。NHKオンデマンドで『クローズアップ現代』大阪の商店街の回を見る。そこに映し出された人の生活を考えると暗い気持ちになるしかない。こんな時に「自分はまだ恵まれているのだ」と考えることも考えようとすることもどうなのか。「この困難のために何かをしたい」気持ちだけがふっと沸いては冷める。その繰り返しは精神を不安定にするのだろうか。あるいはこの期間読んでいる辻仁成という作家の日記には「コロナウィルスは人と人を引き裂く悪魔のようなもの」と書かれていて、自分もそれと似たようなことを考えていたかもしれない。

 

・一方で自分がいま一番に恐ろしいことは5/7以降に「コントロールされた収束」のもと一斉に経済活動を始めることにより、今以上の恐怖の中でいつよりも猛烈に労働する世界が来ることだ。様々なエクスキューズを先回りして根拠にしてしてみようとも、やはり当該国の作戦は不可解で、それについては数日前に感覚として理解した「生命よりも経済を重視している」以上のことはない。一ヶ月一切のサーヴィスを放棄して逃げ続けるための情報戦略網が設定されている。なるべく多くの民が生き延びてそのことを徹底的に批判して、別の社会のあり方を構想することにしか希望がない。希望を挫くようなメッセージは、たとえば総理大臣が星野源という音楽家の力を横領する動画だが、こうしたコントロールさえもできることがソーシャル・ネットワーク・サーヴィスの恐ろしさだとも言える。そのことを徹底的に批判するとどこに行き着くのだろうか。

 

・今日は午後から授業代替のオンラインガイダンス@ZOOM。家から同僚と校舎職員と自宅にいる学生と会話する。ヴァーチャル背景を探しながらも身なりは整える。別の世界の日曜日に来た。