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  映像研究

木に留まる

 
・ように201802081210。初台のカフェ的な場所にてmacbookを開いて備忘録。


・業務のあらしのような日々が去ってひと段落。それでも今シーズンはチームメイトに分担してもらって、他のことは別の機会で大丈夫なような下準備をしておいたおかげで大きな事故も起こらずに全てのプログラムを運営することができた。できたそばからしかし、そのプログラムに改良が必要なことを心から思って(痛感して)業務が終わり次第、場所を変えてミーティング。ノマドカフェ、と呼ばれる場所に初めて(久しぶりに?)行った。番組の企画のような空間でひたすら話し続ける。終了後は別のメンバーとも合流して歌舞伎町の四川料理で飲食。自分ではない、家族でもない、誰かと会って話をすることは面白い。この面白さをどうすれば「知の力」に繋げていくことができるか。労働としてサーヴィス業として始まったことがサーヴィスを逸脱して、なおかつサーヴィスに応えることは余裕でクリアした上で、もっと驚くようなものを与える。そういう意味での贈与について気がつけば20年近く考えてきた、あるいは考える前にやってしまっていた。それをヴァージョンアップしながら、教室だか企業だかの壁を超えていくことはできないか。ここにはこういう問いがある。チームワークはいつでも大切。言葉の力を鍛えることが課題。遠足の約束をして解散。


・自分のことを並行してやらなくなていけない。この一年くらいではっきりとわかったことは、自分自身が何かをクリエイトしていないとどんどん自分が枯れていくことで、泉のように湧き出しているつもりでも、何か別の良くない感じになっている。自戒。秋に提出した文章が戻ってきて改稿してして年末に再送。先週はじめての「ゲラ」というものを読んで「校正」という作業をする。そういう作業をして文章を書くことがまた少しだけわかったような気がする。いまさら。いまさらではあるがその機会の貴重さを感じつつ、次のステップ、浮島のような次の一歩、一手が見えたり見えなかったり。「現代のイメージの問題」と書いてみたものの、それはなんだろう。写真と物について。ずっと考えているが、考えをまとめることはこの速度が限界なのだろうか。もう少し急ぎたい。練り上げて文章を構成することは少しだけわかった。しかし言葉の勉強をしながら哲学の歴史をもう一度学び直すことはできるだろうか。しかしそれをしなければいけない。これは自分がやること。


・それ以外には場所の問題。