&

  映像研究

振り返る角度

・土曜日は何をしていたか。振り返って書く日記。昼間は少し業務あり。しかし業務がひと段落したこの期間には、自分の研究と勉強を進めながら、一日一本以上の映像、特に映画を見ることにしようと思っている。

 

・夕方から池袋コミュニティカレッジでセブンシネマ倶楽部というシリーズの「杉田協士と江本純子の試み」題された上映とトークを見に行く。映画を作るプロセスにおける「ワークショップ」がテーマとされていたのだから、普段自分も映像を作ることについて考え、映像を作ることを学ぶことについて考え、映像を作ることを学ぶ場について考えていることもあり、ぜひ聞いてみたいと思い行く。そして杉田監督の高校での授業をきっかけに産まれたという丹野幸一郎監督『席のむこう』という映画をずっと見たいと思っていたのだから(年末に別の会場で上映があったときには定員を超えて見られなかった)良い機会だと思った。

 

・『席のむこう』を見て考えたことは「場所」のことで、それは杉田監督の『ひかりの歌』を見たときにも思ったことだが、高校生にとっての学校とは不思議な場所だとあらためて思う。家や部屋とは違う意味で、しかしその場所で人が「生活している」場所であるからだろうか。人がある場所で生活している間に、その場所と馴染んでいくようなことを、映像は写して記録しているように感じた。あるいはその可能性があることを映像を見て考える。生活することとは繰り返すことで、繰り返すことによって行為や動きそれ自体は意識されなくなる。演じることはそれを問い直すことでもあるのだろうが、問い直しながらも同時に基礎にはその蓄積され意識されなくなった動きがありそれがその人を存在させている。

 

・自然だとかそうでないとか、リアルだとかそうでないとかは、映像を見て感じた印象の言葉ではあるものの、この問題を考える上では役に立たないように思える。杉田監督のトークの中で印象的だったことのひとつに「丹野監督の記憶を元にしているのならば約20年前?の出来事なのだけどそれを演じているのは数年前の高校生である、これはどういうことか」ということで、確かにそれは不思議なことでもある。たとえばスマートフォンを手に会話する高校生はそのような細部も考えれば過去の出来事を「そっくりそのまま再現している」のではない。過去の事象がテクスト/モチーフとしてありながらも、映像からは現在の役者の存在を強く感じる。そして本来それが「演じる」ということなのだろうか。

 

・もうひとつ印象的だったのは「カメラは(あくまでも)道具である」という話。カメラの都合によって人の動きをコントロール/矯正しようとしたときには何かが失われる、という意味のことを話していて、その問題が自分にとっては何かを考えるきっかけになりそうだと思う。例として、ある人が声をかけられて振り返るシーンを撮るとして、その振り返る角度をカメラの都合でコントロールしない、ということが挙げられていた。その考えは理解できるが驚きも大きくまだ整理できていない。その考えの基礎には人の存在をまず第一に考えるという意志のようなことがあるように感じる。この考えを進めていくとどうなってしまうのだろうか。わからない。簡単にわかってしまうよりももう少し考えてみたい。写真を撮ることとも交差させながら。