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  映像研究

新しい人、10年、つくること

・201910290923。久しぶりに一日まるまる作業ができる日。いつものように中央図書館に行くことも考えたがまずは自宅で始めてみる。読むこと調べることの前にまずは書き始めてみる。まずは日記的な文章を。一昨日の夜に10年前の焚き火を囲む集合写真を「10年前」とだけ書いてライングループに投げてみた。いまそれぞれの場所でひとりひとりが10年を過ごして当たり前のように別の場所に存在している。その不思議を自分の/自分と身近な他者の出来事として感じて考えていないと狂ってしまうような気がして、時々過去を振り返る。振り返る時に写真は役立つ。表情や空気が写し取られているから。

 

・昨日の夜友人が新しい人を産んだというメッセージ。10年とは、過去の10年とは、全然別の時間の意識が発生する。そのメッセージを22:00に職場で見たならば慌てて仕事を終わらせ初台駅のホームで思わず少し祈る。言葉を失って考える。自分が知っている友人を思う時それは過去の場面の中のその人だが、そうした回想ではなく、現在のその人を思い浮かべながら何事かを考える時に確かに念を送るとしか言い難い意識がはたらいている。あるいは未だ来ていない時間を思う時それは祈りと呼ばれる意識がはたらいているのかもしれなかった。電車に乗りながら意識は過去と未来を行き来する。

 

・近い過去。週末の土曜日は「見る一日」。朝から家族と共に行動を始めて映画『真実』を鑑賞。楽しみつつ色々と思うところあったが、自分にとっては「映画(映像)における風景」の問題を考えることができたことが収穫だった。あの映画には風景らしい風景はほとんど映っていなかったように感じた。カメラの周囲の空間が窮屈に感じられたのはどういうことだろうか。あるいは夏にDVDで見た諏訪敦彦ライオンは今夜死ぬ』との差異を考えてもいた。フランスという国で映画を撮ること。フランスという国で映画を撮る映画であること。あるいは「家族」という制度や意識についての解釈は対照的であると考えた。是枝裕和という監督の映画はいつでもおそろしく家族に回帰する。というのはあまりにも定型的な感想かもしれず、もう少し考え続けてみたならば、それは「日常ということ」、人にとっての「いつもの時間」というものがあるとして、その時間はどのような時間で、どのような意味があるのか、ということを問うているのではないかと考えた。そしてその答えはひとりずつ(家族と呼ばれる人びとであっても)異なって構わない、というメッセージを読んだ。

 

・その後母校の芸術祭に行き先月業務を手伝ってくれた大学生の芝居を見る。その芝居を見たことからまた色々と考える。最近いくつか見た学生の芝居は自分にはセラピー的なものあるいはカウンセリング的なものとして感じられた。あるいはそれは現代の映画にもそういう印象を持つことがある。濱口竜介以降、と言いかけてみて、しかしそれは是枝裕和諏訪敦彦以降つまり1990年代中盤以降ということかもしれないとも思う。イメージに現れる人間同士は精神分析的なコミュニケーションを交わす。振る舞いを観察するためのカメラと、自己を語る発話がある。カメラと発話とが化学反応を起こすように自己を開く意識が増幅される。リアリティショー的なエンターテイメントのモードも、現代美術における関係性というタームも、たとえば田中功起のプロジェクトも、そうしたセラピー的なものあるいはカウンセリング的なものが関わっている。いま「そうではない(なかった)芝居」を想像してみて、かつての物語とは、何らかのアクションによって現実を変えていくことのモデルであったのではないか。その意味での「お話」は完全に動いていないという印象がある。

 

・映画と芝居を混ぜ合わせつつ芸術祭を歩く。何人か知った人と会えたことも面白い。上野に移動してジーンズを購入。デザイナーの方にフィッティングをして貰えるというイベントに行ったら当然のようにそのブランドのファンのような者になってしまった。それはそれで面白い。ジーンズを購入して履くことは少しだけ未来を想像させなくもない。近くの中華料理屋でブレイクしたのち、浅草方面で職場の知人の展示。日頃は仕事の雑談しかしない人の作品を見ることは面白い。全然違う意識が生まれる。自分の周囲の人たちがつくっていること、つくり続けていることに尊敬を感じる秋。帰りに思い立ってメトロの小川町で降りて、近くのワインバー的な店で二次会。ここは東京らしい場所だと思いながら帰宅。休日の終わり。