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  映像研究

映像

・201908282340。夏の終わりの夜。今日は病院へ。検査の結果何事もなく自分の健康が証明された。しかし鎮静剤とは凄いものだと思う。完全に意識が鎮静される。睡眠とも少し違った種類の気絶。モニタの映像を見る余裕はなかった。「車で来ないでください」と言われた意味を納得しながらふらふらと帰宅。夕方帰宅してそのまま寝る。起きて24時間ぶりの食事。落ち着いて今。すっかり入院するつもりでいたから拍子抜けしつつ、もちろん入院はしないに越したことはない。業務が土曜日に終わってから数日静かな気持ちで過ごしている。「静かな気持ち」とは自分にとっては人と会話をしないということとほとんど同じ意味で、一緒に住んでいる家族や必要最低限の電話連絡などはするものの、基本的には「人と話すこと」から退いている。引きこもっている、という表現も遠くない。意識は内向している。

 

・普段教室のような場所にいて時々不思議に思うことは、そこは「教室」であり「アトリエ」であり「講評の場」である。人が集まってきて時間に合わせて何事かを行うが(させるが/するが)それぞれの時間のそれぞれの行為における意識のありようはまったく異なる。創造とコミュニケーションとは本来まったく関係がないとドゥルーズが言っていただろうか。その言葉を引かずとも、教室の例で考えるならば、集中して内向して制作している人に対して、その行為を説明せよと命令することは、極端な意識の転換を要求している。あるいはその創造/コミュニケーションの落差が面白いと思うからこそ、ソーシャリーでエンゲイジドなコンテンポラリー・アートが流行したのだろうか。しかしそれも今は相対化されているのだろうか。

 

・ぼんやりした状態で考えたことは「何かをつくること」についてだった。作る/造る/創ることに思いを馳せながら、もしかすると今夜は病院のベッドで寝ていたかもしれなかったことを考える。