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  映像研究

消えた12時間を思い出しながら

・202011082039。雨が降り出す。帰宅する京王線で。メモ。朝の8時30分から夜の8時30分まで瞬間移動。色々な人と色々な話をする。身体の力が抜けた状態で話すことができているのは、チームを組んでいる同僚を信頼しているからだと思う。「複数人に向けて話すこと」と「複数人が自分に意識を向けている状態で一人に向けて話すこと(という仕方で複数人にメッセージすること)」は異なる。日頃はそれを自覚なくしているが、時々そのような自分の話し方や姿勢が前景化することがある。照明を当てるように「人を指す」こともある。照明の照度をどのようにコントロールできるのか。スイッチのタイミングもある。言葉で舞台を作っているのか。

 

・意識が集中している状態から解放されて(休み時間)、それぞれにそれぞれの振る舞いを始めることも面白い。空間の大きさに対しての人間の数も影響する。「隠れられる」ことをいつでも考える。隠れる自由は観察する自由でもあるのだろうか。眼差しから自由であり眼差す自由を持っている状態。参加と不参加の中間に身を置くことで、識ることもあるし、そのような態度でいる自由があって欲しい。ワークショップと眼差しの問題。全員が舞台の上に、光の中に存在することが絶対的に正しいわけではない。教室が闘技場ではなく森のような場所であることが理想だと思う。物理的に身を隠すことができることと、各々が別の物を見ている状態があり得ること。森風のテーマパークではない「森」。そういえば自分はそうした状況におけるスマートフォンに対しては、以前ほど抵抗が無くなった。それはコミュニケーションの問題をいつからか超えてしまったのだと思う。つるつるしながら存在するという前提。

 

・では森に本があることはどうだろうか。果実のようにある本。身を隠して、誰からも眼差されることなく、本を読む自由。そのような自由が、教室にも、都市にも、世界にも、あればいいのに。