&

  映像研究

夏の終わりは涼しい

201908270912。中央図書館が開館するのとほぼ同時にinしてみた。図書館の照明が落とされているのは節電かあるいは不具合か。いずれにせよ少し落ち着いた感じで、これはこれで良い。人も少ない。今週から学生も学校が始まっているのだろうか。学校教育のサイドBで年間のスケジュールが決定される自分にとっては、今は夏の終わりの小さなブランク。涼しい。

 

・明日は病院で検査の予約を入れている。今夜から人生初の絶食になる。少し緊張。ある一定の年齢上になったならば定期的に検査することは大切なのだとあまりにも当たり前のことをつぶやいてしまった。そういえば昨日ふと見つけて尹雄大『断食で変わったぼくのカラダ』という本をダウンロードして読んでみた。「私が『痛み』を持っている」のではなく「私が『痛み』になる」というような意識の変化が書かれていて興味深かった。業務が少し途切れる冬の終わりに毎年断食をしたいしたいと願ってきたが、夏の終わりにこんな形で訪れるとは思っていなかった。これもまたギフトと思う。

 

・気がつけば今年は恐ろしい頻度で日記らしいテキストを書いていて、それは3月にとりあえず毎日何か書こうと思ったことや、はてなダイアリーからはてなブログに移行して新鮮だったなどの理由があるが、第一には、書き、残す、という行為に対する恥じらいがまた一段階くらい減り、その結果ともかく書いて残しておくことが生活の一部となっているからであるように思う。同じようなことを同じような文体で書いている。それは論文的な文章を書く上での準備運動でもあり、自己のテクノロジー?のようなことでもあるだろうか。中断。

 

・食事のリズムを早めるために11時半にカフェコーナーでカレーを食べる。食休みとしての日記の続き。カレーを食べながら植本一子『フェルメール』を読む。植本さんという人が家族について書いた文章を読むことは自分にとってはかなり辛く味わいや思考の手がかりよりも重い気持ちが残るが、絵画を写すこととそのための移動について書かれた『フェルメール』の文章はさっぱりしていて何か感覚を得た。あとは断食の本からの流れで尹雄大『脇道にそれる』も図書館にあったので読んでみて、課題に使えないかななどと考えたりもする。

 

・たとえば健康診断を受けるときに、いつからか「最悪の結果」や「まさかの事態」をかなりリアルに想像するようになった。「あの仕事はあの人に引き継いでもらおう」とかの事務的な事柄から、家族と呼ぶ近しい人へどのように報告すべきか、その文言を考えたりもするようになった。「申し訳ないのですが・・・」と切り出されても相手も困るであろうことは想像できるが、真っ先に思うことは、糸のように張られた何かの期待を切断するようなイメージで、そのことを心苦しく思う。そのうちに想像することに飽きて、想像することをやめる。再び中断。