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  映像研究

休日の休日らしさをもっと

・201907161647。休日。梅雨の後半の雨。早起きするが昨日の業務と打ち上げの疲労が抜けず午前は家で洗濯と片付けなどする。クリーニング屋と銀行と税金の支払いを済ませる。ホームセンターでベランダ菜園の種と電球のノートを買う。久しぶりに中央図書館に来た。夏になると中央図書館に来る。去年と一昨年は業務がない日は強制的に中央図書館に来て作業をすることにしていた。中央図書館は何よりも広いのが良い。ポパイと&プレミアムを読む。ギンザはない。

 

・そして今年の夏はどのようにすごそうか、と考える。小さな論文を書くことを2年ほど夏の間の課題にしていたが、数日前の面談などもあり諸々考え直す中で今年はそれをキャンセルして語学と研究の準備にあてようと思っている。三歩進んで四歩、五歩戻っているようにも思え、考え始めると途方にくれるが、もう既に取り返しのつかないほどに別の世界に生きているのだと思ったりもする。遅れて、遅れて、遅れ続けた結果、別のフィールドにいるのかもしれない。そして現実には何かが戻ることなどない。

 

・先週後半は業務の一環でいくつかの大学のオープンキャンパス的なイベントに行くことがあった。あるいは所属している大学の方と飲食する機会もあった。最近色々な場所で、あるいは普通に生活していて「デザインに対して違和感を表明すること」は、トレンドとともにどこかに消え去ってしまったのだなと思うことがある。「資本主義や消費社会を問題化すること自体が『古い』のではないですか?」と言う人がいるだろう。そうなのかもしれない。しれないがわからない。わからないので(わからないから)「わかった」と自分が思うまでは思考を続けるしかない。ともあれ違和感や疑問を言語化し共有することをアップデートする(し続ける)ことは力もエネルギーも必要だと思う。

 

・怒りは、生きている生活の中で「屈辱を感じる」ことによって生まれる。「資本主義や消費社会を問題化したい」のではなくて、端的に「間違っているのではないか」と思うことがある。表現の動機には「ことを正したい」という気持ちがあり、それ以外の表現の動機は実際のところ「よくわからない」。快楽や権力欲と「ことを正したい」を区別する視線を持つこと。その視線を他者と自己に同じように向けることはできるだろうか。

 

・消費に対して疑問を感じながらも一方では「何かが欲しい」と感じたならば、とりあえず買えば良いのではないかと思うことがある。「買うか買わないか」で迷っている時間はショートカットして別の何かをした方が良いのではないかと思う。時間は有限だという事実について考えてばかりいる。

 

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