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  映像研究

変化することと変化させること

・201907111013。業務でyoutubetwitterを扱っていると、その再生数やフォローやいいねとかそういった数字が変化することに一喜一憂する気持ちがわかる気がする。それを承認欲求的なことと結びつける言説は有り触れているが、単純に「変化する」「変化させる」あるいは「操作する」「インタラクションが起こっている」ということから得られる快の刺激なのだろう。増えることは気持ちが良い。ブログにもそういった部分がないとは言わないが、静かに書いているならば、それは基本的に自分のための備忘録だと考えることができる。

 

・フランス語を学ぶことが面白くなってきて、というとさぞ色々なことがわかってきた風だけれども、現状はただ何度も「入門」している。門の周りをぐるぐる回っている。それでも文章や音声の中に知っている言葉やフレーズがあると嬉しいのだ。去年学び始めた(20年経って再開したということでもある)時には「0から1に進んだ」と思ったのだが、しばらく続けてみるとそれは「0から0.1に進んだ」ことでしかなく、さらにしばらく続けると、実際は「0.1から0.11に進んだかもしれない」というような現状かもしれない。先は長い。語学が良いと思うのは、習得するために効率を考えることにあるかもしれない。手段を選ばず検索してみる。そんなときにyoutuberの存在の意味が少し理解できる。

 

・「ゲーム的なもの」に取り囲まれているようにも思える生活の中で、しかしたとえば「私たちの生活はそもそもゲームのような側面を持ったものだったのです」といった種類の言説もあり得るのだろう。読んだわけではないが、中沢新一という人が人類学とゲームを矛盾なく接続させる時には、そのような論理が想像できる。狩猟も農業も戦争も婚姻も「ゲームのようなもの」と言い切ってみたならば、明快さとともに後ろめたさがある。自分はむしろその「後ろめたさ」の方に焦点を合わせて、割り切れないもの、わからないもの、見えないもの、計算できないこと、などを考えているのか。究極的には語れないし、語ってはいけないことがある、という考えの方に重心がある。

 

・写真というもの、実写ということ、カメラという装置、写すという行為、写されたイメージを見る経験、などなどについて考えることから拓かれる(はずの)領域は、そうした「コントロール」とは異なる体系を構想するだろう。しかしそれが全く「関係がない」ということでもないのかもしれない、と今は考えている。重なっていようが少しでもずれたならばそれは「別の領域」と言えるのだから、どこかで接続されている可能性はある。仮想敵に設定してしまうのは勿体ない、とそう考えてもいる。自分が惹かれるイメージから「倫理的なこと」を考えることは、この問題と関係があるだろう。

 

・ベランダの鉢にパクチーとディルの種を蒔いてちょうど一ヶ月が経った。芽が出て背が高くなりそれぞれの強い香りを発すようになる。その変化は嬉しい。しかしその変化は自分が完全に操作することはできない。計算することもできるのだろうが計算し尽くすことはできないのだろう。しかも天気のことはわからない。だから「運を天に任せる」というような言い方があるのだろう。種や土に似たものとしての写真について、少し思う。

 

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