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  映像研究

まだ夏ではない

・201907090853。暑くなく涼しい朝。家で荷物を待っている。待ちながら勉強している。勉強は思ったようには進まない。期待していたようには進まない。このところ業務の諸々に追われていて、追われ続けている。休みの日を作り集中することが難しい。研究の方針を定めること(定め直すこと)もまた難しい。

 

・言葉を話すこと、言葉を書くこと、言語を学ぶこと、文章を読むことなどをしていると、物に触ることがどれほど有り難いことか、と思う。あるいは見ることもまた有り難い。いつか友人に「自分は言葉もまたマテリアルとして考えている、いや考えたい」ということを話して、それは基本的に今でも変わっていないのだが、しかしやはり言葉は人工的なものだ。あるいは記号だ。ただそこに在る、ようなものとして言葉を捉えることは難しい。

 

・と同時に言葉を話すことが唯一コミュニティを作り/続ける方法だという風にも思っている。すべての人のすべての行為は自分が死なずに/殺されずに、なるべく自由に言葉を話すことができる場を作り/続けることのために。善悪はまた別の問題。

 

・友人に送るために写真を焼き増してみた。2Lの白フチありは昭和の集合写真のスタイルを採用。本質的なことではない。だがしかしそのスタイルを採用することで見えてくることもあるかもしれない。想起の手がかりということか。無意識の手がかり。ということだけでもない。素朴に考えて、フレームが存在していることによって、紙にプリントされた物がそこにあるというだけでなく、イメージを見る意識がセットアップされる。イメージを見る意識の方が(何と比較してだろう?)厚みがある。いくつかの異なるレイヤーに属すると思われる事柄を考えることができる。

 

・写真を見ると「すべての瞬間は完璧である」と思うことがある。それは「すべての物は完璧である」とも、ボードリヤールの写真の細部の考察とも通じる。

 

おそらく写真を撮りたいという欲望は、次の事実を確認することから生まれてくるのだろうー意味の側から全体を俯瞰して見た世界は、まったく失望を誘うものであるが、不意に細部を見たならば、世界はいつでも完璧に自明な存在である

 

「世界は完璧に明らかなものとして見える」とはどういうことか。まだそのことは考え尽くされてはいないように思う。