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  映像研究

手を動かす

・201905241030。自宅にて書く。午後からは業務。午前は荷物の受け取りを待ちながら明日からの帰省の準備。忌引き的な週末になってしまった。90近い祖父は一般的には大往生と言ってよいのだろう。だから何かが断ち切られたように感じるときの喪失感はない。それでも親族がひとりまたひとりと亡くなることは日常の意識とは別のことを考えさせる。時間とか身体とか健康とか戸籍とか土地とか金とか。

 

・熊本旅行の写真が現像されてきたのでLサイズプリントを見ながら友人と共有するためにデータに変換する。小平のAスタジオさんありがとうございます。多分に個人的なノスタルジーを含みながらも、しかし、やはり、まったくデータ化を経由することなく現れたイメージとしてのLサイズプリントは惹きつけるものがある。家族はそれを見て「学生の頃(つまり1990年代)に撮られた写真みたい」と言った。その感じは理解できる。時間の流れが少し変になる感じがあるが、この先しばらくずっとGW690Ⅲで撮影をして銀塩プリントを見続けていたならば、その違和感も消えるのだろうか。

 

・その「変な感じ」「違和感」は確かにファッション雑誌でおそらくは「フィルムライク」と指し示されるような「雰囲気」とも重なるのだろう。だけれども自分はその「変な感じ」「違和感」をこの10年の自分の時間の流れの「変な感じ」「違和感」と通ずるものとして感じているところがある。それは年齢が近い人と話をしていて時々話題に上がる「2011年の3月11日からこちらの時間の流れがどうも変に感じる」というもので、それは冷静に考えれば(冷静に考えるとか言うことにどれほどの意味があるのだろうか)大きな出来事によって断絶を感じる、その前後でうまく時間を辿れないということであったり、少なからず友人や知人あるいは耳に入る著名な人が生活を変え、それによって個人的な歴史や系譜をきれいに形成できないということに起因するかもしれない。では「冷静に考えない」ならば?

 

・その「冷静に考えない」ときの、つまり想像的に思考を膨らませたときの、時間のあり方と、最近撮影している写真はどこかで繋がっている。あくまでも自分の感じでしかないのだけれども。

 

・スキャンしてPCの画面で見ることの違和感もある。友人を写した写真の表情に惹きつけられる。自分が撮影したのだが、その撮影した瞬間は「掴まえた」という感じに見え、また「偶然写り込んだ」という感じもある。そもそも自分は風景と集合写真だけを撮るつもりでいたが思わずテーブルの向こうに座っている友人に、声を投げるようにしてカメラを向けてシャッターを押してしまった。そうしたら掴まえてしまった。そういう写真から考えられることはある。「思い出」ということとも少し違う、ように思う。あるいは「思い出」とはそういうことなのか。いずれにせよ「こういう写真が撮れるようになってよかったな」と思う。というか、こういうイメージを見ることができて本当に良かった。ラボと、カメラ(GW690Ⅲ)と、スキャナ(GT-X830)に感謝。

 

Twitterを流し読みしていて、総理大臣と一緒にセルフィーしている著名人に対して、それを問題化するメモのようなテキストを読んだ。いつからかそうした事象をことさらに問題と感じなくなっているのだし、一方では「首相と会食」を踏み絵としてラベリングすることに、少しだけ躊躇したい気持ちもある。嫌悪感はそれとして。そのテキストの最後には、そうした事象に抗うために「カウンターやオルタナティブを作り出すこと」が、そして「手を動かすこと」が書かれていて、その「手を動かす」という言葉に、目がとまった。この「手を動かす」の「手」とは、「動かす」とはなにか? それは比喩であり、そして、しかし、同時に、文字通りの意味にも解釈できるのだろうか。

 

・「作り出す」=「手を動かす」はテキストのストレートな解釈だが、なぜ「手を動かす」と書かれるのか。「手を動かす」=「表現する」というような意味を強調しているのだろうか。揶揄ではなく、たとえば電車に乗ったならば、その乗客全員が「手を動かして」いる。熱心にスマートフォンあるいはタブレットの表面を指でなでている姿を見る。それは「手を動かす」とは考えられないのだろうか。それは「見ること」しかしていないからか、あるいは見てもいないのか。または「消費をしている」こととして「作り出す」=「表現する」こととは異なる行為として解釈されるのか。では「リツイート」は、「いいね」は、「手を動かす」ことなのだろうか。

 

・既にある程度答えが出ているような事柄を、このように弄んでみて、より正確な思考に辿り着きたい。より正確であるような思考の流れに乗りたい。「手を動かす」とはなにか。