&

  映像研究

年齢と年月

・201903050852。時間は流れない。しかし便宜上「時間が経つ」となら言ってみることができるとして、それがどんなことか少しわかるような気がしてきた。大抵人は「このような変化」をするのだと。面白く、恐ろしい。友人は言っていた。「あっという間だ」と。あっという間だと思いながら日々の生活をしている。他の人はどうだろう?

 

・昨日ふと考えたのは「返礼」についてあるいは「返済」についてで、コミュニケーションは絶えず返礼を求められることとも言えるが、その返礼を「平等な状態を作るため」と考える人と「平等はそもそもあり得ずまた別の返礼を要求するもの」と捉える人がいるような気がしている。仮に単純化するならば交換モデルと贈与モデルと言えるか。そしてこの差異は意外と気になり、かつある人のコミュニケーションを規定する要素として大きいのではないかと考えた。そしてその差異は齟齬を生むことがある。「なぜ伝わらないのだろうか」と言うとき、それがコミュニケーションのあくまでも一つの(任意の)モデルであることが意識されていないのではないか。その齟齬は攻撃的な表現につながることすらあるだろう。それは一種の(無意識の)信仰なのかもしれない。自分自身はつい数年前まで前者の交換モデルですべての事象が考えられるのではないかと思っていた。「対等であること」あるいは「平等であること」が出発点で到達地点だと考えていたかもしれない。しかし色々な事象を前にして、人と話をして、つまり実際に生きてみながら今特に考えることは、この世の実際は、贈与モデルによって捉えると理解できるのではないかということで、なおかつそれを人の成長とすら考えている。

 

・逆に言うと交換モデルつまり「平等」「対等」あるいは「権利」や「義務」ということを基礎にしても違和感が生じる(生じ続ける)。それは「目標とすべきこと」ですらないのではないか。唐突につぶやいてみるならば(つぶやきはしない)誰もがつねに「謝罪を求めている」状態にあるのだ。謝ってもらいたい。謝らせたい。それは自分もまたまったく理解ができる。だから一方で誰もが謝罪し続けている。そういう欲望がふわふわと浮かんでいることを尚且つ誰もがチューニングしている。誰もがその空気は「見えて」いる。いつからだろう?もうずっと前からだったけれども自分はその空気を無いことにしていたのかもしれない。恐ろしいほど簡単なことで誰かの感情が吹き上がる。それは間違っていないし同時に推奨されているかもしれなかった。ただその時にまだ考える余地があると思うことは、誰が、何を求めて、どのような信仰に根ざして、怒りの声をあげるかということなのではないか。

 

・贈与モデルに軸を置いて考えるということは、「自分は誰かに対して返礼できていないのではないか」という「やましさ」を原理として、人の思考や行為をそしてコミュニケーションを考えるということかもしれない。そういえば松村圭一郎という人の『うしろめたさの人類学』という本があり、こうした(あえて「信仰」と言ってみるけれども)考えと重なるように思う。その場合また考えることは、人はどのようにしてその「やましさ」や「うしろめたさ」と付き合うかということになる。

 

・「尊厳」という言葉を聞く。「尊厳の問題です」と声に出す人がいるだろう。そうなのだと思う。しかしそれに単純な違和感以前の共感できなさを感じるのは、自分は「尊厳が脅かされている」「尊厳が損なわれている」と考えたことがもしかするとこれまで一度もないからだ。よほど恵まれているか。よほど鈍いのか。その両方なのか。「自分に対して攻撃的なコミュニケーションが発動されている」と感じる時でさえ、それは尊厳の問題とは考えない。あるいは「プライドが傷つけられた」と考えることも感じることもほとんどないが、それは小さな怒りを感じるその理由を突き詰めて考えたことがないからなのだろうか。「プライド」は解体されるべきだと考えている。それは何か別の心理なのではないか?その言葉を解体せよという課題。いずれにせよ「尊厳の問題」と「プライドの問題」もまた異なる問題として捉えるべきなのではないかと考えている。それを混同することには(無意識であるにせよ)何か良くない状況を生み出す理由となる。謙虚になることは難しくつねに努力目標だし目標にするかどうかもその人が決めれば良いことだろう。謙虚さと卑屈さも紙一重であるのだし。卑屈さに陥らず謙虚でありながら自他のプライドを解体すること。日常的な実践における「倫理のようなこと」について。

 

・悲観的な意味でもなく、しかし、壊れ始めたものは壊れ続けるのだと思う。本当はいつも何かが壊れ続けている。見えるものと「時間が経つ」ということの「壊れ加減」「壊れ具合」のことを考えると、少し救われたような気持ちになるかもしれない。

 

 

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学