&

  映像研究

5月が終わる備忘録

 
・2011年5月31日。そうして5月が終わる。5月は終わるけれども、しかし何も終わらない。いつだって月が変わったからといってわかりやすく何かが切り離されたり整理されたりするわけではないけれども、それにしたってこの「片づかなさ」はなんだろう。この「日々の生活をかりそめと思う感じ」はなんだろう。ついこのあいだも友だちと木皿泉の話でひと盛り上がりしていて(大体いつも木皿泉の話でひと盛り上がりしている)「例えば『すいか』というドラマのテーマというか前提には『日常』というものがあって/そこが良かったのだけれども/しかし今や『日常』っていうものを何だと考えれば良いのだろうね(というか『日常』に戻ることがあるのだろうか/この今を『非日常』として解釈できる地点は訪れるのだろうか?)」とかいうことを話したりしていたのだけれども、やはり今は「日常」を定義することがとても難しい。


・そしてまた表現をすることも難しい。それは今まだってずっと難しかったけれども、きっと今は一層難しい。例えば何かひと言発するときには、あるいは話している会話が途切れて次の言葉を継ぐ前には「〜〜という意味ではなくて、」とか「〜〜だということはわかった上で、」とかいう注釈を付けてしまうような会話を誰もがする。自分がどのような人(何を知っていて/何を知らなくて・何を信じていて/何を疑っていて)であるかを示した上で、前提を共有した上で、共有できないなりに示した上で、表現をしているような感覚がある。コミュニケーションをとっているような感覚もある。それはなかなか疲れることなのだと思う。持久力が必要なことなのだと思う。


・そして「表現することのモデル」として「芸術表現」についても考えていた。先週展覧会を観に行ったchim↑pomというグループの人がDOMMUNEに出演していたときに「今何をしていたかが後に問われる」というような意味のことを(たしか)話していて、その言葉は別の人の別のブログ的なものにも引用されていたりしていて、そして自分の周りでも「そのような発言」について少し話したりしていたのだけれども、個人的には「そのような発言」こそが「芸術表現」のロマンティックな部分であると同時に、もう一歩「リアルではない」部分であるような印象を受けた。自分を「表現する者」として定義することの、ロマンティックさと、リアルでなさについて、自分としてはどうしても考えてしまうけれども、それはしかし誰かを(例えばその発言をした人を)批評しようということではない。


・それは例えば自分だって考えている。「今何をしていたかが後に問われる」という言い方は今ひとつピンと来ないけれども、ともかく「今自分が『やったらいいかな?』と思うことをやっておこう/あとからでは出来ないこともあるだろうから」という感覚があるので、そうしている。それは良いのだ。でも「今何をしていたかが後に問われる」という意味の言葉を他者に向かって発したときには、その人が「問う人」であり「審判する人」であるような印象も受ける。そのことの不穏さについて考えた上で、だから自分は、少なくとも自分の周りの顔が見える範囲において、誰かが誰かの審判になってしまうような状況を作らない工夫をしたい。それは今の自分の(暫定的であるけれども)考えだ。問うのは自分に向かってだけで良い。そして自分を律する(ことができるかどうかとかはまた別の問題だ)ための問いを、そのまま他者に差し向けることの暴力性に対して敏感でありたい。挑発よりも誘惑を。


                                                                                                                                1. +

・そして(だから)今は本も読む。本を読むことに決めた。例えば上記のような「表現すること」について考えるために、差し当たって「表現することのモデル」として「芸術表現」についてももっと調べよう。自分の周りの複数の人が(偶然?にも)同時にお薦めしてくれた杉田敦という人の文章を読んだならば「現代美術『について』考えるのではなくて、現代美術『で』考える」ということを書いていて、それは非常にしっくりくる考え方だと思った。Rくんの話にもしばしば登場する、ニコラ・ブリオーという人の『関係性の美学』についてももっと知りたい。


・そして歴史や経済についても知りたい。図書館に行ったならばずっと貸し出し中だった柄谷行人という人の『世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)』という本が置いてあって、読み通す自信が全然ないなりに借りてみる。「交換様式A」とか「世界システムX」とかいう戦隊ものみたいなフレーズにドキドキしつつ読む。その他見田宗介という人の『白いお城と花咲く野原―現代日本の思想の全景』伊藤昌亮という人の『フラッシュモブズ ―儀礼と運動の交わるところ』『現代思想』の5月号「特集 東日本大震災 危機を生きる思想」など借りる。そしてまた先週購入した大澤真幸という人の『社会は絶えず夢を見ている』を読み終えてしばし呆然とした。「世界同時革命」について書かれた本をこんなに面白いと思ってしまうことにやや不安を覚えつつも、面白い。どこがどう面白いのかについては考え中。


                                                                                                                                1. +

・5月30日の夜には坂口恭平という人の「新政府ラジオ」にて七尾旅人という人の演奏を聴く。それがちょっと何とも言いようが無いくらいに素晴らしくて(だから内容を記述したりはしない/できない)普通にコンピュータの前で手を叩いたり笑ったり神妙な気持ちにもなったりした。そしてまた映像の向こう側に映し出されるその場所のことを想像してみたならば、それは本当に自分が考えるシンプルなフェスティヴァルのかたちでもあった。色々な人がいること。人が集まって同じ時間を過ごすこと。音楽を聴いたり歌ったりすること。本当はいつでも/どこでも可能なはずの「フェスティヴァルの空間」はそのまま「新しい社会」でもあるのだと思う。そのような場所がいろいろな所に現れれば良いと思うし、それが仮設的であっても良いのだと思う。そして不思議だけれども当然と言えば当然なのは、そのような空間には「贈与」という感じが満ち満ちているということで、それはどんなに解像度の荒い映像でだって伝わってくるということで、だからきっと多くの人はその感じに本当は本当に敏感であるということだ。


・「結果から考えて何かをつくるのではない」「面白いと思ったことが別の面白いものを作る『きっかけ』になる」という言葉は、かつて高橋悠治という人が脳科学者の人との対談で話していたことで、自分はその言葉を何度も/何かあるたびに/何もなくても/思い返すのだけれども、それはきっとフェスティヴァルや社会であっても同じことなのだと思う。はじまりはあるけれども、終わりはわからない。続いていくものもあれば、別のものに接続されていくものもある。消えてしまったように思えるものも、また別のものとして姿を現すことだってあるのかもしれない。そしてそれは考えてみればとても当たり前のことであるようにも思う。「表現」をそのようなこととして捉えたときに構想される「社会」や「フェスティヴァル」について考える。