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  映像研究

労働

・201903041126。昨日は労働に関わることで一日が終わった。社会に生きる誰もがこのような交渉や話し合いをしているのだろうか。もちろん何も必要なく雇用されながら働き続けられるならばそれは楽だが、一方で自分はいま「必要なこと」をしているのだ、という気持ちもある。いまここで主張しなければ自分はこの先ずっと後悔するだろう。過剰な盛り上がりは自制しつつも、冷静に言うべきことを言おうと何度も確かめる。

 

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・ある時期以降に自分もまた決定的にシニカルになってしまった。それは周囲の人が「声を上げて」「疲弊する」その推移を感じていたからかもしれない。「自分は大丈夫だろう」と考えていた人が、ぬかるみに足を取られてゆく。小さな世代間闘争。すぐ隣の同じ環境を敵と思う。思わされる。人間的であるか/非人間的であるか、誰もがそれを「使い分けている」という認識のもとに振舞うが、互いに自分の方がより狡猾であることを言外に伝えている。不毛だと思う。しかし一度気がついた問題は放置することはできないのだと思う。

 

・一方でどのような人も組織も関係も、そうした問題をまったく抱えていないということはなく、ある意味ですべての場所に問題がある。それは当たり前のことだ。屈辱なのはいつでも貧しい者から分断されていくことなのだ。自分は自分のことを「貧しい者」とも「弱い者」ともアイデンティファイしない。しかしまったくの他人事として言うのでもなく、傾向として、戦略として、そのような切り離しが起こり続けていることに焦点を合わせようとする。