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  映像研究

2019年の3月11日

・と書いてみて、その時間の途方もなさと一瞬で過ぎ去ったことに呆然としそうになる。今日は午前中は家で少し作業をして(主に片付けだった)、午後は大学へ知人の映画の上映を観にいく。映像を見てこういうショックを受けることが久しぶりだった。「こういう」が「どういう」ものなのか、言葉にすることができないのは、それを見ることから整理できない考えることが始まっているからだけれども、同時にもっと単純に言葉を失うほど動揺している。その映画について詳しく書かないし書けないけれども、やはりその映画の中でも震災のことが語られる場面がある。一見テーマと直接関係ないようでいて(?)しかし自分にとってはその映画のテーマと震災(2011年3月という時間の点を認識すること)は固く結ばれている。その結び目に意識を集中すると何が考えられるか。

 

・ひとつは「家族」ということで、あるいは「子供」ということだった。昨日味噌作りをしながら考えていたことも、そのようなことだった。自分くらいの年齢の人間が何事かを行動するときの条件として「家族」や「子供」がいる。それは数年前の自分やあるいは少し年少の友人とコミュニケーションするときには感じないものだった。もちろん今までも同じ場所に居合わせても会話の中でいくつかのレイヤーが存在することを感じるような瞬間はあった。だけれどもそれが生成するのではなく、空間自体がレイヤーになっているような感覚を知り、新鮮な気持ちになった。きっと今なら理解できる、言語化できることがあるだろう。自分には自分の子供はいないがそれでも場所を、空間を、世界を見る視線は(ゆっくりとでも)更新されるのだということを知った。それが誰かと共有できうるのかということは、また別の問題として。

 

・そうしたことを考えながら実家に一瞬寄り母親と会話をする。夕方のニュースで津波を見ながら、そういえば8年前の13日から数日は実家で過ごしたことも思い出す。なぜか「自転車を買いに行く」という話が出たのは、電車も停まることが予想されていたからだろうか。空いているガソリンスタンドを探したことや、駅前を歩いたときに、見える光景が煌めいて感じられたこと、近所のスーパーに品が並んでいるさまを見て圧倒されるような気持ちになったことも思い出す。それは日常ではなかった。

 

・同時にこの一ヶ月以上考えている/考えさせられている複数の、それ自体は直接関係がないはずの事柄に、「当事者/非当事者」というような考えの枠組みを想定したのも、そうした思考の延長だった。当事者とも当事者でないとも言えないグレーな感じ、いや、本当はすべて誰もがグレーなんですよ的なことでもなく、偶然グレーであった幾つかの出来事/場所/視点から、当事者と想定される人に向けて、どのようなコミュニケーションが可能か。多くの場合はそれほど重要ではないかもしれない。なおかつこちらの自意識の問題になってしまっているかもしれない。「考え続けることが重要ですね」と言ってみて、しかしそれも思考停止のパフォーマンスであることが少なくないことを知っている。

 

・「作品」と呼ばれる何かを見て、それが「真面目に考えている(考え続けている)ことのプレゼンテーション」に感じられることがある。あるいは一方で「露悪的に振る舞うこと」が違和感として残ることもある。それは、あえて言ってみるならば現在の芸術表現の主要なモードの裏表で、だからほとんど同じものの両面と考えられる。表現自体が先回りのエクスキューズになっている。そうではなく、表現すべきことはあるのだろうか。表現するやり方はあるのだろうか、という問いを立ててみる。

 

・ひとつには「話を聞く」ということがある。しかもそれは「真面目に考えている(考え続けている)ことのプレゼンテーション」ではなく、本当に「話を聞く」こととして。話を聞いている振りは巧妙になっていく。自戒を込めて。「話を聞こうとする姿勢を持ち続けることが重要なのです」とかではない。興味がないから聞かなくても良いのかもしれない。だし、そもそも興味がなければ人の話は聞けないのかもしれない。そして興味を持たせる、ということも極めて難しく、それを促すことも怪しい。しかし「話を聞く」ということを中心にして、表現や思考を根底から考え直すにはどうしたら良いのだろうか。ほとんどどうどう巡りのような考えが動き続け、会話や対話を必要としている。