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  映像研究

言い訳の定型文

 

・薄々気が付いていたけどどうすることもできなかった、とか。あるいは逆に、全然思いもよらなかった、とか。または、これが良いことで自分にできるベストだと思っていた、とか。いくつかのバリエーションが考えられるが、そのいくつかに跨った予感を持ちながら、人は間違っていたことに気がつくのかもしれない。というくらい「間違い」を「反省する」日々を送っている。それは決して否定的なことだけではないけれども、素朴に言って、「なぜ自分は非常に狭い範囲の中で考えていたのか」という、はっとするような気持ちがあり、ここから凡そどちらの方に進めば良いかは「思うところ」があるものの、具体的にプログラムはできていない。いずれにせよ、根本的に「考える」「言葉を扱う」「わかる」「伝える」ということを捉えなおす必要が生まれた。


・ひとつには、あまりにも自分の話している言葉が伝わらない、これは伝わらないものなのだろう、あるいはいつか理解されるのかもしれないが、それはもうずっと先、目の前の人が自分とは一切が関わりがなくなって自分のことを忘れる時に、ふと思い出されたり思い出されなかったりするようなことだと。そこから進んで「そういうことでしかあり得ない」と。思っていることに依るのだろうか。いずれにせよそれは、どこかで自分が決定的に正しいことを「温存しようとしている」のだから、そのことこそが改められるべきであって。しかしそうでないとしたら一体、どういう対話があり得るのだろうか。問いは尽きない。さしあたり主には業務だが、業務で再び言葉を話し出す1ヶ月半後に、自分は上記の問題に対して、何らかの手がかりを見つけることができるのだろうか。漠としている。


・伝わらないだろう、とは思わずに、まずは自分自身がそれを理解しようとするだけの時間が必要なのかもしれなかった。いま「具体性」といってみて、それがたとえばひとつの手がかり(の手がかり)のようなことであった。あるいは「風景」とか「描写」とか、言ってみることも同様に。いずれもそれは映像と言語、その両方に跨る問題でありつつ、また別の問題として光をあてることもできるような気がした。いまそれを「あること=存在」の問題として考える。「あること」をどうすれば明らかにできるか。目の前に物質として実在したものを「これです」ということではなく、映像で写す、あるいは言葉で表す、そうして「あるもの」を在らしめることは、重要な問題であるかもしれなかった。そこで出現したものが「いきいきとしていること」の価値を、人と共有することはできるのか。わからない。でも、わからないなりに、方向としては、そういう感じ。


・久しぶりの休みで、なおかつ久しぶりに家にいて、本の山を本の棚に収納して、散らかったプリントを片付けて、今後自分がやることの大きな計画を立てた。先は長い。人の命は短い。いまそんなことばかり考えてる。


・いかに生命が軽く扱われているか、ということに呆然としつつ、たとえば「法人」とかいう何かや、たとえば「貨幣」とかいう何かが重要だと思われているのだが、一方でどうしてこのように、植物や、動物や、鉱物や、それらの存在は軽く扱われているのか。少なくともそのように思われるのか。どうすればよいのだろうか。自分が不器用に言語を扱い何かを試みるよりも、率直に別の何かを実践した方が良いのではないか。そういう思いを捨てることができない。あるいはこれまで大量に生産された役に立たない物を静かに片付けるような仕事はないのだろうか。そうも思う。


・力を過信しないこと。何のどんな力であっても。