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  映像研究

額と化石

・201910071022。月曜日。天気予報を見て、明日あいトリに行くならば4時半には家を出なければならずその時間はかなりの確率で雨が降るらしく当然バスもない。最寄りの駅まで歩くのはそれだけでかなり消耗する。その他業務のいくつかの心配事など諸々を考慮してやはり今夜の夜行バスに飛び乗った方が良いと思い立って荷造りをしながら今。0泊だから造るほどの荷ではない。むしろ時間が飛んで水曜日になった場合スムーズに水曜日の自分が14日まで駆け抜けることができるのかをシミュレーション。Twitterで友人が「休みという概念がない」と書いていて、まったく同じフレーズを同僚も口にしていた。それらの状況を想像すれば自分は未だ多少は許されている。

 

・自分の研究と作業と、フランス語学習のタスクと、引き受けた対談の文字起こし作業が、目下ある。

 

・6日土曜日に業務のおつかいで世界堂へ。思い立って額のフロアへ行き適当なサイズ、適当な値段の額を2つ購入する。2Lサイズがゆったりと収まる白い金属のフレームのものと、6切がややタイトに収まる木枠のもの。先週会談した友人の「いまはアクリルマウントではなくマットで額装がトレンド」という発言を思い出しつつ、2Lサイズの5月の熊本の集合写真を入れてみる。入れてみて、しかし額装した写真を置く場所がない。とりあえず本棚に置いてみる。額装された写真は何なのだろう。標本のような写真。それは何をメッセージしているのか。

 

・机の上にはもうひとつ、アイコンにも使っている大きな石あるいは小さな岩の写真が額装されてある。ラフな、間に合わせの額装で10年近く経ってしまったことも恐ろしい。奥多摩で2009年くらいに撮られた写真。その写真はこの10年で自分が撮った写真の中でもっとも見ている写真であると思う。あるいは意識して見ずとも、自分の視界に入り、だからおそらくは何かしら影響を及ぼしている。山に行っていた頃は風景というよりも植物や鉱物を撮っていた。意識を引かれるその存在を、引かれる理由を思いながら写したならば、何かが映っているように思えた。いまでもそれは変わらないのだけども、写真を撮ることについて最近はまた別のことを考えている。石あるいは岩はデジタルカメラで撮られたイメージで、しかしその後、あるとき、物質として写された写真、たとえばフィルムを支持体とした写真は、それ自体が石あるいは岩のようなものだと思った。写真は化石としてのイメージであるという考えがはっきりとした。いつか同じ場所に行ってその大きな石あるいは小さな岩をもう一度、今度はGW690Ⅲで撮るかもしれない。石を石に変換するための撮影。

 

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