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  映像研究

瀬の思考

・年の瀬の「瀬」は瀬戸際の「瀬」。際に立つ。「際」と「極まる」も通じる。201912191028。自宅で作業を中断していま。「瀬」の感じを思いながら、いましていることのすべては2020年の準備だと思う。たとえば家では自分の作業として、本をコピーしてそれを糊付けして翻訳用のノートを作っている。職場ではひたすらに画用紙を印刷したり課題文を作る。時々面接練習。

 

・その合間に今年撮影した写真を引き伸ばして少し大きなサイズで見てみようと思い立ち、ラボTCKにプリントの依頼。自分で暗室作業をするのが2020年の目標だからせめて今年のうちにその作業をイメージするための写真が欲しかった。一枚引き伸ばすならばどれだろうと相当に考えた結果、11月に撮影した多摩川のカットを選ぶ。何と言うことのない河川敷の風景だが、対岸には小さく住居の一部だと思われるブルーシートが映り込んでいる。それは2019年の台風に依るもので、それを写して良いものなのかその場所で少し考えたが、最終的にはそれに向けてシャッターを押した。その躊躇も含めて2019年の出来事だった。年を跨いで何が変わるわけではないが、2019年のうちにそれをイメージとして、そしてイメージ=物として見てみたかった。

 

・イメージ=物と言ってみて、2019年はその「イメージ」と「物」について、引き続き考えて、また具体的な事象に触れた一年でもあった。完全に職権濫用的に社会科見学させてもらった映像メディアの修復・復元センターで受けた印象は強く、いま読んでいる松本圭二『チビクロ』のフィルム・アーカイヴのことも少し想像ができる。フィルムは腐り、人間も腐る。そのことを確かに自分も2014年以降考えていたのではなかったか。人が死ぬことと写真について。デジタルデータでどれだけ記録をしても虚しく感じるということが、いまの思考の基礎にある。虚しいことをすべきではないとは思わないにせよ、自分は「では確かなものとはなんだろう」と考えて、それをイメージの問題として休み休み考えて続けて、結果いくつかのテキストを集中的に読むことにたどり着いた2019年だった。その途中であるところのいま。だから半分は脱線だけれども(業務の行き帰りの電車で少しずつ読むのにちょうど良い)『チビクロ』のフィルム・アーカイヴの箇所はいま読んでおいて良かったと思う。

 

・『チビクロ』に「私は詩を書くことが労働だと思ったことは一度としてない」とあり、読んでいた意識を止めて、乗り換えで電車を待っていた調布駅のホームでふと考えた。自分は何かを労働だと考えたことはあったか。労働だと思ったものはやめた。結果的に遊びと修行と暇つぶしが残るのか。偶然にも業務で学生が「現代において芸術と労働とはまったく重なる」というような内容の文章をさらっと書いていて、一瞬の戸惑いとともに、ああでもそうなのだよなと思う。何も異様な考えではない。とりわけ映像に関わることであれば当然の図式であるだろうと思う。そうした考えを排除して「学問=芸術」という領域を守ろうとすることは権威的であると思う。「自分は、」「思う。」と話すしかない。時々思い出して考え続ける。

 

 

チビクロ (松本圭二セレクション)

チビクロ (松本圭二セレクション)

  • 作者:松本 圭二
  • 出版社/メーカー: 航思社
  • 発売日: 2018/06/11
  • メディア: 単行本