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  映像研究

夏が終わって

 
・毎年飽きもせずに同じようなことを繰り返している。同じようなことが重ねられていくことの意味を感じながら、同じようなことの内にある異なった部分に気がつくことを学びと思いながら、しかし結果的にはそれをしている。労働でも学びでもあるような何か。千秋楽。何とか乗り切ったが平穏無事ではない。風邪をひいた。計画は遅れている。実践が戦争状態にならないために。考えなくてはいけないことが沢山ある。そして終わった直後は体の力が抜け、言葉を発する能力を忘れて、耳の奥には誰かや誰かの声が残っているようで、その声を一つ一つ選り分けて返せなかった言葉を返す準備をしながら、それに頭の中の言葉で応答することをしている。


・そして、にもかかわらず、発したくて発することのできなかった言葉が、残って、まだ次々に湧き上がってくるが、目の前には誰もいない。適当に、手当たり次第に、誰かにその湧き上がる言葉をぶつけたならば、相手は、どうしたものか、と思うだろう。あるいは「見ること」「読むこと」「聴くこと」のスイッチが入りっぱなしになって二日くらいはその状態が終わらない。でも終わる。これがパーマネントな実践であるような人は、きっと終わらないのだろうが、自分の場合は季節労働であるからこそできることなのだ。だから強制終了の方法さえも知っている。熱は冷める。冷ますものである。熱が冷めるまでは、出来ることをする。


・人が集まること。その中で言葉が発せられることそれ自体に、凄い力の、凄い量の情報があり、その情報に刺激を受けすぎて、体をおかしくすることがある。良い場合も悪い場合もあるが、それは面白く恐ろしいことであると改めて思う夏。自分自身がそういう力に打ちのめされる経験をすると同時に、おそらく自分自身もそのような力を発していただろうと思う。その力によって空間にある感じが漂っていたであろうことを思い出す。結界のようなもの。力に自覚的であれ。言葉は恐ろしい力を持っている。


・あるいは発話の感じが今までとは違う感じで自分の体と意識とともにある。驚くほど言葉が重い響きをする。うさぎが野をぴょんぴょん跳ね回るような言葉の発し方を自分はもう今後することはできないのだろう。あらゆる表現のスタイルは体型の意味だから、簡単に意識だけで取り替えることはできない。あるいは取り替えようとしている別の感じが現れるだけで、戻ることはない。一方向に進むしかない。形式的である中にその日の気分としての揺らぎを保ちながら、メタ的な逃げなしに、少しだけゆっくりと言葉を発すると、声は驚くほど空間のサイズとピタリと合致する。恥じらいがなくなったのだろう。それを人は言葉のままの意味で加齢と言う。


・力と対象が合致することは快楽であるのだろう。それは暴力でさえも。いやそれは暴力的であることと本来的に結びついている。だから力に自覚的であれ、ということを何度でも言わなくてはいけない。力は必要な時に使い、別の時には納めておかなくてはいけないのだろうと思う。取り違えないようにすること。


・自分のための音読、レクリエーションとしての朗読、あるいはカラオケの効能。言葉の響きを誰もいない水路に捨てることは正しいのか。楽器を弾きながら歌を歌うようなことをしたい。だけどさしあたり楽器は弾けないしこの街は楽器は禁止されていた。


・それで書いている。読めないから、あるいは書くべき種類の文章に向かえないので、思い浮かんだことを書いてみている。