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  映像研究

こうして夏が終わる(ドトールコーヒーについて)

 
・ここはどこか。ここは初めて来た場所。ここはニュータウンの大型書店に併設されたドトールコーヒー。図書館はそもそも駐車場がいっぱいで入ることができなかった。ではどこに自分の作業場を作るかと考えながら車を走らせてたどり着く。騒がしいドトールコーヒーも時には悪くはない。悪くないと思うことにする。


・昨日までの業務のラストスパートで力を使い切ってしまったようである。少し温存しておこうと思うのだけれども、いつも同じことを繰り返している。12月から2月までの丸2ヶ月と8月の1ヶ月。公演をしているような心持ちで、体調を整えながら、声の調子を気にしながら、同じことでもあり、違うことでもあるような何事かを遂行している。からだと声の使い方が完全にあるプラトー的な状態にあった。人と話をすることには合気道のような種類の(知らないから予想だけれど)力が必要とされる。これは労働ではある。労働の後には口から意味のある音声を発することができない。あるテンションを作ってやっている。昨日の最終日にはチームの3人で打ち上げ。業務のタームの間は人とくつろいで話をすることができないということを話していたけれども、業務のチームで話をすることは運動の後のストレッチに似ている。先ほどまでの言葉の使い方と少し違う話すことをしながら、それを日常の自分の言葉に戻してやらなければいけない。それでもいま精神の筋肉痛のようなつまり疲労がやってきたならば、何からやるべきだろうか。睡眠かもしれない。少し目を閉じてドトールコーヒーサウンドスケープを聴いてみる。


・一方で今年はその合間の時間に論文を書くという自分に課した課題があり、今のところ目標のたぶん70%、作業全体の40%くらいのところにいる。最悪の状況よりはずっと最高ではある。この数日全然テキストを開いていなかったけれども、基本的にはずっと手放さずにきたという実感がある。忙しいと手放してしまう。労働と労働のための余暇と様々な人付き合いとアルコールによって人は簡単に研究を手放すことができる。そのことを誰よりもよく知っているつもりでいる。だからこそここから9月末まで、これをなんとかかたちにしなければいけない。これは約束。


・一方で久しぶりの友人と会って円卓を囲むことも人が生きる上で必要なことである。暑い日に辛い火鍋を食べた。冷たいビールを飲んだ。こうしているとたとえば7年前くらいの夏に簡単に意識を運ばせることができる。みんなで一緒にそこに行くこともできるように思う。いくつかの部屋の記憶がある。高尾の、国立の、部屋の感じを驚くほど覚えている。ある時間を思い出す、そして「懐かしむ」ということに出会った感じがした。人はいつでも誰でも子供でも反射のように「懐かしい」という言葉を発するけれども、懐かしいと感じることと、懐かしむことは違う。「懐かしむ」は能動的な動詞で行為と思考と想像と発話すべてに関わる。「懐かし夢」と言ってみたくなった。


・また一方でそんな論文のことすら飛び越えるような自分にとってのテーマについても考えたい。空気が秋らしくなると山に行くことを思うから、その気持ちを観察することから/その気持ちを持って何かを見ることから、普段の生活とは全然違うことを考えることができる。具体的な物質のことと、抽象的なイメージのこと、あるいはその逆について、考えることができる。そしてそういう状態でなにかの現象をよく見てよく言葉にできたというような感触を持たなくてはいけない。そういう正直かつ適切な言葉の使用が自分の基礎の力を作るのではないか。だからこれは「アウトプットばかりではなくインプットも必要だ」というような普通の話を実感しているというエピソードでもある。


・ひとりの人間のなかには凄まじく恐ろしいものが刻まれている、と思うことがある。それを力と言うこともできる。人間の力とは一体なんだろうと考えたならばいつでも樹木や葉が成長するイメージを思い出す。それは動くものではあるけれども、運動というより知性としか呼べない何かである。凄まじい知性、それをあらゆる人が宿していて、だから「反知性主義」などというものが仮想敵にする物事を「反知性」と呼ぶことは何かを見誤ることになるのではないか。あるいは「思考停止」と言ってみても、思考は停止しない。なにかそれを批判する人が守りたい概念とは違ったことに使われていることを問題としたいのだ。それは「疲労」や「中毒」に関係した問題であるように思う。


ドトールコーヒーにはきれいに分散した色々な年齢の人たちが色々な組み合わせで客として来ていて、一番奥まった座席からその様子を見ていると、人の色々なこともわかってくるような気がする。子供は恐ろしい表情で大人を見るのだ。ひとりで座っている人を見ることも面白い。