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  映像研究

風邪を言い訳にして

 
・家にいる。風邪を言い訳にして、というほどのことでもないのだけれども、実際に体調が今ひとつなのと、4日連続で業務だったから今日は休む。大人しくする。大人しく本棚を片付けながら当面読まなくてはいけない本のあたりをつけておく。そういうことが大切だと思う。


・前から読まねばと思っていた清水高志という人の『実在への殺到』を買い、これから読む。良いタイトルだなと期待する反面、全然手付かずにいた思弁的実在論、新しい唯物論など、ますます宿題が増えることにやや恐れをなしている。ひとまず予習としてニコニコ何かの何らかの代金を1000円分購入して『哲学と映像の存在論的展開』という対談を見るなど。


・言葉を話すことを仕事少なくとも当座のなりわいにしていることを贅沢というか恵まれたことだと認識しつつどうしても思うことは「もう少し意味のあることを話し、考えたい」ということで、その場その場で「意味ある風のこと」ばかり発話していると、端的に頭がはたらかなくなる。学生たちにとって切実な何事かはそれは確かに切実な何事かであるものの、そのことに引きずられてはいけない。自分にとって切実な何事かはそれとは全然別のところにあるのだ。そうしてあらゆる他者との間にある断絶を許し、その断絶についても題材としながら自分にとって重要な何事かを考えたい。


・しかし年々「自分にとって切実な何事か」を誰かと、誰とも、共有できなくなっているように感じるのはどういうことか。何か自分の方に問題があるのではないかとも考える。だからこそ時々それを言葉にしてみるだろう。言葉にしてみてわかったことは、やはり「映像の問題」は重要だということだった。中断。


・前にもまったく同じことを書いたような気がするが(しかしこれはそもそも誰に宛てるでもなく自分が思考を整理するために書いているから同じことを繰り返しても全然許されるのだった)教育について、本質的に考えようとするほどに、実際には「人は人に何もできない」のだなと考えざるを得ない。國分さんが『ドゥルーズの哲学原理』書いていた(と思う)ドゥルーズの政治とまったく同じだ。「人は変わるかもしれないがそれは然るべき時が来たならば勝手に変わる」ということで、人が人を変えようとか、導こうとか、諭そうとか、授けようとか、そういうすべてのことは本当は不可能ではないか、と考えざるを得ない。


・だから自分にできるのは「言葉を投げること」でしかない。「聞いても聞かなくてもどっちでもいいけどこういう考えもあって自分はそれが良いと思っているし何より何というかおしゃれだよ」みたいな身振りとともに言葉を投げる。具体的には「話をする」「書いた文章を渡す」「本を置く(指し示す)」ということが自分の攻撃のコマンドである。本を手にしてくれ…と願いつつ念を送る。しかしそれが攻撃なのか?


・特定の思想を押し付けるのではなく…という攻撃の方法はしかし果たしてどうなのか?疑問は尽きない。そうした中で唯一自分が信じていることは「自分で決める」。ただそのことだけが、ある人を思考に導くのだということ。人間の精神にある「力」のようなものがあるのならば、それは「自分で決めた」その数と量が圧倒的な養分になる。だから学生ならば、何も決めることなく過ごすことができるそのルーティンからいかに外に出るかが問題となる。例えば一つの作品を作ることのプロセスには、千、万、それ以上の「判断」がある。一本の文章を書くことも同様である。そういう課題を出すこと。


・あるいは、作品を作ることと旅をすることは似ている。そして他者に過剰な気持ちを持つこと(恋的な)は、その意味で重要である。無限に近い「自分で決める」ことのプロセスを体験させる。朝起きたら今日着る洋服を自分で決めなくてはいけない。自分の何かを賭けて選べ。すべてのことは、自分が/自分で決めた結果、自分の何かが変わるということ。だから、教育とされるような枠組みの中で自分ができることといえば、作品を作らせ、旅に出させ、恋をさせる(教える人間にではなく)、ということしかない。あるいは洋服を選ばせる。


・昨日思わずそのような楽屋オチのようなことを話してしまったのは、もう、それを知ってもらうことが一番手っ取り早いと思ってしまったからだった。「私がしていることは、みなさんが日々の生活の中で作り上げられてバランスしている思考の、そのバランスをわざと崩すことで、その思考の動きの幅を広げることで、いうなれば思考の整体のようなことをしています」と言われて、しかしそれが自己啓発セミナー的なことと何が違うのか。目に見える技術だけでなく、何か本当に重要なことを考えてもらいたいと思った時に、しかし一体何ができるのだろう。


・と考えて「あ、そのことを言ってたのか」と思って坂本慎太郎『君はそう決めた』をまた聴く。