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  映像研究

風邪を理由にして

 
・風邪は治っているのかもしれないしそもそも風邪でもないのかもしれない。しかしそれを理由にして、口実にして、家であれこれしている。積んである並べてある本を積み直し並べ直しながら、次の論文へ向けて準備をしようと思う。


・課題(問題点)は自分の表現の賞味期限が短いことである。というかその場合それはそもそも研究なのかどうなのか怪しい。いつ書いた文章を読んでもやはり「いま読むと違うな」と思ってしまうのはどうしたらよいのか。多分ひとつにはアウトプットの数を増やさなければいけない。ひとつひとつをドロップするのではなく、ある領域を作りそれをつねに編制し直すような状態にしなければならない。しかしそれはいかに困難なことなのか。継続するしかない。継続することと、意見をもらうこと。あるいは人と話をすることで補完する。


・そしてしかし選挙期間になればそれについて調べる。つねに立候補している政治家がどういった人なのかを調べるような余裕はないが、それは社会人に課せられた社会の時間のようなことだと考えるしかない。外交について。税制について。憲法について。可能な範囲で調べようとする。


・自分の選挙区の候補者のなかで一体誰に投票すべきか。今回ばかりは自明ではない。勝たせたい、というか勝たせたくない人がいることからの戦略的な行動とは何か。立憲民主党の候補がいればひとまずそこに入れてみるのもよいかと思いつつ、自分の選挙区には出ていなかった。自民党では困るという理由で希望の人に入れることすら考えたが、どうしても、どうしても・・・それはできそうにない。そして、正直あまり気が乗らない中で社会民主党の小糸健介という人を調べていたところ、投票先がどうこうということを忘れて、久しぶりに「自分がこの社会に生きている」という感覚が揺らぐような感触があった。この映像は一体何で、この映像がオフィシャルなものであるとされる現在とは一体何か。あるいはいつ、どこで、何が、自分が気づかない間に変わったのか。でもそれは本当はもうすでに起こっていたことなのかもしれない。


・街頭演説の様子とネット演説の様子とが全然違う。全然違うその振る舞いは完全に演出されていて、だからその意味でこの人は「政治家然とした振る舞い」を見せながら「政治家然とした振る舞いから完全に降りた(風な、あくまでも演出として)そこらへんにいる人の振る舞い」をする。それを「人間らしい」と捉えれば良いのか。それとも「システムに最適化した」と捉えれば良いのか。しかし少なくともこの人はパフォーマーなのだと思う。街頭演説の様子を最初に見て「居酒屋で会っても全然話が盛り上がらなそうだな〜」と感じてしまった、その自分の感覚の狭さを恥じる。もっと解像度を上げて現実/映像を見なければいけない。


・そして、しかし、このネット演説の、この女性は一体誰なのか。最後まで明かされることはない。あの、こういう例えは本当に陳腐だと思いつつも、しかしゼロ年代チェルフィッチュの芝居の人にしか見えない。女性が話している間に小糸健介という人がスマートフォンを触っている時に、自分の何かが壊れるような気がした。政治とは、ここまでの、こんなパフォーマンスをしなければならないのかと。しかしそれは「どぶ板」とか言って笑顔で握手をしている人も、本質的には同じことなのだった。なぜあの振る舞いを自然なものとして見て、この映像を異様なものとして見るのか。その違和感が渾然とした状況に考えるべきことがある。


・この振る舞いに呆れる部分も、絶望する部分もある。あるいは既存の政治団体の、特に高齢の方などは本気で怒り出す可能性がある。しかし、これをやるしかないのだ。護憲なんてネタであるかのように振る舞いながら、もしかしたら響くかもしれないどこかへ向かってパフォーマンスを繰り出すしかないのだ。戦争になることだけは嫌だと。戦争になってからでは遅いのだと。だからいま自分のからだと言葉を使ってやれることはやるのだと。そのことを考えると、笑っていたはずが泣いていたような、なんとも言えない複雑な気持ちになる。


・スタイリッシュなものがお好きな人は立憲民主党へ。合唱コンクール的な生真面目な感じがお好みなら共産党へ。アクティブな趣味よりも漫画を読んだりアニメを見たり作ったりすることがしっかりくるならばどうぞ社民党へ、とか言ってみる。「言ってみる(半笑いで)」という振る舞い。そうやってあらゆる方向から自由を確保するような動きを作り出しながら、戦争になることを避ける道を探っていく。そして小糸健介という人は牧師でもあるのだった。宗教にある理念と政治にある理念がどう響くべきか、ということについても考える余地がある。