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  映像研究

夏の終わりの時間(季節がわからない)

 
・ここはどこか。馴染みになったと思っている中央図書館は月に一度の休館日だから、昨日と同じように大型書店のカフェコーナー(ドトールコーヒー)にいる。午後3時。ドトールコーヒーは異常に混み合っていて、端っことかの作業スペースとして良さそうな席はすっかり占領されていた。それでもドトールで何かを購入すれば数時間無料で駐車できるシステムは有難い。今朝部屋を片付けていて気づいたのは中央図書館で一日勉強していると駐車場代が約1000円かかっていたという事実だ。いや気づいてはいたけれども。1000円は大きい。生ビールが2杯〜3杯飲める。夏の計算。


・昨日の精神のストレッチのような状態から9時間くらい寝て、起きて、少し緩んだ。業務のメールをいくつか送ったことも良かったかもしれない。ほどよく平常運転に戻りつつある。ほどなくしてインタビューに答えるようにして自分の状況を自分で飲み込む。もう少しでテキストを読む準備ができるような気がする。夏休みの宿題はもう少しで再開される。


・今月末に本屋に並ぶはずのギャロウェイという人の『プロトコル』という本が気になっていて、しかしいま自分が来ている大型書店には置いていなかった。そういえばクレーリー『24/7』とカルプ『ダーク・ドゥルーズ』を接続させながら考えていたのは、ネットワーク環境をどう相対化できるか、ということで、これがいまの自分の研究のモチベーションのひとつの柱なのだったことに最近気がついた。ボードリヤールの「インテグラルな(統合された)現実」は、イメージがデータになり、それらが現実を構成する要素となる環境を指し示していた。だからそれは自分がかつていちどまとめた労働についての問題とも接続される。24時間7日間ネットワークに接続されている。24時間7日間労働させられている。そのことに対する違和感が少しずつ、いろんな場所から湧き上がってくるような予感がしている。そんな自分は電波の届かない場所を仮設することにしか興味がない。もちろんこのテキストやあのテキストはネットワークに存在しているが、それを別の環境のための準備として考えてみたい。


・そういえば高校生は当たり前のようにフィルムで写真を撮るのだった・2017。しかしフィルムを現像に出してデータでもらうらしいのだった。「同時プリントって言葉わかりますか?」と聞くまでもなく、別に高校生はネットワーク環境に疲れ果てているわけではない。ネットワーク環境という大海原に乗り出す上で、小さな小舟を自作しているようなものだ。そこにはユーモアはあまり感じない。90年代に当時の大人が言いたがったような種類の「切実さ」のようなものはあるが、それは写真だろうがイラストだろうが10代後半の人たちが何かやることにはそういう物語を勝手に投影するだけだ。だからそれに対しては何も言わない。


・少し前に集まった中華料理屋で完全に同年代の山部の皆さんもまた、そういう時代の空気的なことに対して限りなく敏感である。自分が久しぶりに使っているリコーGR1とまったく同じ物が友達の鞄から出てきたのは面白かったけど彼女はそれを下取りに出そうとしていた。「え、GR1売っちゃうの?」写真を仕事にしている友達は、いまはGR1の28mmは広すぎるように感じる、と言った。その感じはとてもよくわかる。だから38mmのコンタックスT2が流行るのもよくわかる。みんな物をクリアに見たいのだ。インスタグラムは言わずもがなだが、ネットワークの写真がどこか「クリアでない」と感じるような感覚。「これは私のイメージです」「これは私の出来事でした」「これは私の・・・」そういう種類のイメージとの関係が求められている。なんだそれは。


・大型書店のドトールには額装されたパリっぽい白黒写真が壁に飾られていて、あるいは洋書がパンパンに詰まった本棚の写真を引き伸ばしたポスターが壁一面に貼ってあって、壊滅的に最悪のセンスだと思うし、この世の害悪の片棒を担いでいるようにも思うけれども(ダメージ加工されたジーンズと同じ罪)、同時にフロアの中央にはフェイクの樹木が植えられて(?)いる。フェイクでない物がどこにあるだろうか。フェイクな物に囲まれて、間接的にであれフェイクを生産することに加担して、そういうことに特に疑問を感じないで死んでいくのは耐えられない。フェイクもまた自然だとか、フェイクを肯定するとかしないとか、そういうのも全部、耐えられない。単純に、耐えられない、ということを言っている。