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  映像研究

間が空いてしまった

 
・間が空いてしまったという反省。うっかりするとすぐに時間が流れてしまう。書くことと考えることを重ね合わせるためにできる限り書く言葉をかたちにする練習。考える練習。それはほとんど筋トレのようなもので(したことがないからわからない)2日くらい業務でバタバタしているとすぐに遠ざかってしまう。強いワンフレーズを思いつくような遊び心も大切だけれども、まとまった文章をじわじわと進めていくような粘り強さも必要だということを思い出す。そして今。そのウォーミングアップの一環として。


・昨日日曜日は業務の打ち合わせ終了後に高円寺の北にある八幡神社の盆踊りに遊びにいく。住宅街の隙間のような神社/幼稚園の敷地に程よい感じの大人が集う様子に久しぶりに何かわくわくする感じがあった。久しぶりに会って話せた友人もいた。普通に自由であるために。自由が普通であるために。いつも気にしておきたい感じがある。


・業務で「夏のおすすめ図書リスト」的なものを作っていて、年々難しくなってきた。自分が読んでいる本は高校生やそれに近い年齢の人とは全く関係がない。「全く関係がない」と言い切るのも極端だし、本当の本当はそんなことはないのかもしれないと思いつつ、大学でゼミでも持っていて大学三年・四年ならばまだしも・・・と弱音(?)を吐きそうになる今日この頃。もはや完全に幻想でしかない「もしもいま自分が高校生だったら」を駆使して何かをセレクトする。ある種の大人はなぜすっかり大人の年齢になっても高校生が喜びそうなものをセレクトすることができるのかと問うてみて、それはそういうチャンネルに合わせっぱなしで、つまり「教育」ということを自分自身と重ね合わせるというタフな生き方を選んでいるということなのだと思う。しかし単純に趣味の問題なのかもしれない。


・そんなことを考えつつ車で市の中央図書館に行くが休館日。近隣のスターバックス的な店で勉強。その後気分を変えるためにコーチャンフォーというディストピア感溢れる大型書店で本を探す。観に行けなかったら読まないことにしていた岡崎京子展の図録があってそれをパラパラして、小沢健二の文章に何事かを思う。「この線路を降りたら/すべての時間が/魔法みたいに見えるか?」について。それを高校生におすすめするのも違うと思いつつ、なぜ岡崎京子の漫画だけがこのようにして語られるのか、ということは気にしても良いはずだった。


・そういえばこのダイアリーに連携されている「はてなカウンター」が8月7日で終了になります、と書いてあって、確かに最近はダイアリーは書けどもカウンターを見ることは少なくなっていたが、これでいよいよ、書いても誰が/いつ/どれくらい読んでいるのかわからない、というオンラインにテキストを書く意味がなくなるという事態になるのだった。あらゆる言葉がリアクションと拡散という明確な目的を持って書かれる現在にあって、デジタルデータによるテキストはどこまで投瓶に近づけるのか?と考えたりしないこともない。ほとんど考えない。