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  映像研究

勉強

 
・勉強を哲学することはないが、勉強をどう進めるかということが目下の問題だ。とりあえず夏の暑い間は自宅で勉強をすることは諦めた。職場の近くのスターバックス的なカフェでギリギリまで粘るのがひとまずここまでの夏の前半のスタイル。まったくスターバックスに良い印象はないがもはや背に腹はかえられない。適度なスペースであればなんでも良い。どんな卑劣な手を使ってでも集中して本を読める/文章を書ける時間を捻出しないといけない。あらゆる生活の選択をその基準のもとに集約させなければいけない。というくらいにマインドをコントロールしないと作業を進められないくらいに、自分は怠け者なのだったことを思い出した。


・夏休みの宿題ということでもないが必要に迫られて英語の文章を読んでいて、しかしそれを進める速度は遅い。こんなことで終わるのか。ほとんど恐怖である。勉強らしきことをしながら勉強の方法が違うような気がして修正していく。勉強をしていると確かに色々なことに気がつく。ないし基本的にはこの勉強は誰に勧められたわけでもましてや誰に強制されているわけでもないのだから(社会に、という発想はあり得るとしても/生涯学習に顕著なコントロール社会という議論)ただただ自分のこととしてやるしかない。そういう流れは少しずつ作れてきている。


・一方でそのことと無関係ということでもなく(むしろ積極的に関係させていきたいところだ)フィルムで写真を撮っている。さすがに日々ペンタックス67を持ち歩くことは困難なので、押入れから発掘したリコーGR1にポジフィルムを入れて時々撮る。自分が撮っているのは「思い出」と「感じ」だ。いま研究しようとしている「物」や「時間」には全然届かない。生活圏内で「物」を撮影することは意外と難しいのだということを知る、あるいは思い出す。GR1にポジフィルムを入れてひと夏写真を撮り続けたのは浪人生だった1998年だからもう19年前だった。恐ろしい。全然勉強しないで昼間はぶらぶらしながら写真を撮って大学生の友達について行って居酒屋的なところへ行き明け方に帰って・・・という生活をほぼ一ヶ月繰り返して、みたいなことをつぶやけば人によっては炎上したりするのか。だから本当のことは大事なところでしか語られないだろう。つぶやきはほのめかしになる。つぶやきが言論のモードになれば、すべての言葉は仄めかしになる。それもよい。自分が文章を書くときに「何に抵抗したいのか」が明確になる。


フィルムカメラで写真を撮る話だった。それは確かに小さな儀式ではある。あるいはそれは「撮影した直後にモニタを確認しない」という意味において、ツッコミのないボケ、またはオチのない小話のようなものである、かもしれない。もしも人を撮影するならば「はい、とるよー」と言ってみんながポーズを取り、しばしの沈黙の中シャッターが押される。「終わりです。」終わるのだった。その瞬間が掠め取られて、どこかに行ってしまった。それは過去ということで、その過去(?)の光(??)の断片(???)が暗箱に侵入した、ということが事実(???????)だ。この体験。この関係が何であるか、あるいは何でないか、ということをこの夏かけて徹底的に考えたいのだ。バルトも参考にはなるだろう。しかしそれはノルタルジーではなく抵抗であるはずだった。


・中断、ここはスターバックス