&

  映像研究

5月の晴れ

 
・あっという間に5月が過ぎて、GWも飛び去って、日々のこまごまとした雑務に追われつつ、しかし健康状態もそこそこに、良い季節になってきたと思う。久しぶりに(ということもないけれども)日々の生活の怠惰を反省して、机に向かう習慣を作ることからまた始めようと思う。「どこまで戻れば再スタートできるのだろう」と思ったか思わないか、ふと思い立ってしばらく前に(再)購入して本棚に置いていた『ソフィーの世界』という本を読み通してみて、その本を読んだに違いない中学生だか高校生だかの自分はさてどう読んだのか、もう思い返すことができない。


・一方でたとえば業務でも「何かについて根本的に考えること」を推奨しながらも、その方法については示す時には「なんとなくの即興」ということになってしまっていなかったか。「何が分かっていて/何が分かっていないのか」を明確にして、同時にそれを少しずつ積み上げていくような作業をしないといけない、というこれはあまりにも基本的な事柄だった。それは「ノートを書く」ということに集約される。備忘録でもメモでもないノートを書くことの必要性を思い出した。(やや絶望的に)遅かったかもしれないけれども。


・それでもいつでも心にそっと連続ドラマの言葉を持ちながら生活を送る。例えばそれは「遅すぎることなんてない」という浅丘ルリ子の言葉だったりする。ドラマを見ることは旅行をすることに似ている。映画は本を読むことに似ているからまた少し違ったニュアンスだ。旅行に行くと「自分とは違う生活」を垣間見ることができる。GWに熊本に行ってきてそこで思ったことや見たもの・聞いたものについて言葉でメモしておきたいと思いながら、なかなか言葉にすることができない。だからそれはもう少しだけ寝かせてみようと思う。


・あるいはまた日曜日には久しぶりに久しぶりの3人で吉祥寺で飲食して、長い時間話をする。話題は尽きない。日々の生活の中で感じることや考えることを時々報告し合うことの貴重さ。そういうことでどうにかこうにか接続される線がある。ノートを書く合間に。