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  映像研究

選挙が終わると

・かつてたしか自分は「選挙が終わると風景が変わる」と思って、感じて、そのように書いたけれども、今感じていることは「選挙が終わっても何も変わらない」ということで、これは結果に対する違和感や憤りとは別に、何も変わっていない、という感じを覚えたということ。


・誰も、辞任する人も、辞任しない人も、本当のことを話さない。本当に思っていることを言葉にしない。そして誰もが「この人本当のこと言ってないな」と思う。みんな感覚としてわかる。そして話した内容のことに対する批判はあっても(形式的な)、その「本当のことを話さないこと」に対しては批判しない。それを批判するのは確かに難しいけれども。そうして「本当のことを話さない人」を日常的に見たり聞いたりしていると、そういう感じは伝染する。おそらく権力のダイヤグラムのようなものを伝って、小さな組織や集団の中にも入りこんでくる。形式的な文言と、安心できる程度の「ぶっちゃけた」言葉(本質的には何もぶっちゃけていない)によって、何事もスムーズに進行していく。いつでもこうだったのか?


・でもいずれにせよそうして「本当のことを話さない」ことが当たり前の空間に居続けると、何かがおかしくなってくる。人としての尊厳が失われていく。


・抵抗することにも力が必要だ。力を発することが難しいならば引きこもるしかない。小さな力を抱え込んで引きこもるという選択。そのことがそのことのままあり続けることができるのならば。ネットワークに接続された人は、横に繋がった幻想の人たちとの意味のない違いに意識を向けられて、本当に考えるべきことを考えられないようなシステムに統合されている。システムの中で「ちょっと気が利いたこと」や「一見過激そうなこと」を競い合っている間に、そのシステム自体が更新されている。アップデートに寄与している。


・ならばネットワークを自主的に切断することに意味はあるのか。特にない。そのことにロマンティックな何かはない。単に忘れられるだけだ。だからこそ何かをやるときには「あえて」同じシステムの中で、先導するための、機能としての言葉を駆使しなくてはいけない。でも、どうして、本当に思っていることを言葉にすることは、こんなにも難しいのだろう?