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  映像研究

午前2時の自宅のリビング的スペースで

 

・午前2時の自宅のリビング的スペースでテキストをエディットする。テキストをエディットする傍らでふとたどり着いたウェブサイト、自分が知らないある人が書いている日記、そこに記されている日常の出来事に久しぶりに夢中になってしまった。そういうことが時々ある。誰かが暮らしているということ、起きて朝ご飯を食べたり、夜お酒を飲んだりしている様子を文章で読むことは面白い。そして具体的な事柄を誰でもが見ることができるページに記すことはそもそも面白い。そしてその文章を書く自分にとってもおそらく特別な意味がある。そのこと(その効能)を理解しながらも、一方で自分にとっては具体的な事柄を書くことが難しい。難しいと感じる。思い返せばこうした備忘録を記すようになって8年が経とうとしているけれども、どんどん「具体的な事柄を記すことが難しい」と感じるようになっているのではないか。それはどういうことなのか。どういうことなのかという問いを傍らに置きながら、なるべく出来事を具体的に書こうと試みる(無理のない範囲で)。


・友人が最近ツイッターに書いていた「自分の頭の中に飽きた」という表現が面白いなと思った。面白いなと思うと同時に、確かにそうした表現がしっくりくるような感じが自分にもあったのかもしれないとふと思う。例えばある本屋の棚を見る動きはいつも変わらない。ある場所ある空間に馴染めば馴染むほど、その場所その空間における自分の動きは一定のものになるのだろう。本屋の棚を見る動きが変わらなければ、そこにどんなに違った本を発見しようとも本質的な変化はない。ルーティン、と呼ばれるのだろう。ルーティンと呼ばれるような行動の中には、それを繰り返すことで得られる「ある感じ」というものもあって、それは確かに重要だったりする。しかしそうした「感じ」に意識がフォーカスせずに、それをルーティンであると感じる方に(感じてしまう方に)意識が向くというのはどういうことなのか。


・同じ「ルーティン」ならばそれを「トレーニング」であると捉えた方が良いのか。この春は「文章を書く」ということを意識的に「再開」してみようと思うと同時に「写真を撮る」ということが、もう一度自分の生活の中に入ってこないものだろうかと思っている。文章を書き、写真を撮る。それはテキストとイメージに関するトレーニングになるのだろうか。わからないけれども実験してみる価値はあるのではないか。ゆえにカメラを購入してみる。機械は確かに自分のあり方に関わる。新しい機械は別の態度、別の意識を刺激するきっかけになるかもしれない。自分にとって例えばそれはカメラという機械だった。


・テキストをエディットする傍らでふとたどり着いたウェブサイト、例えば2007年のラジオでライムスター宇多丸いとうせいこう日本語ラップの現状(2007年の)について対談するラジオのアーカイヴを聞いているとして、それ自体はもちろん非常に面白く聞きつつも、しかしふと今のこの時間とは全然違う時間のラジオ番組を聞いているのだと思った。端的にそれを「2011年以前の時代の放送」だと感じたりすることもある。考えてみれば2007年は既に8年も過去の時間だった。そして8年前の放送を聞く(あるいは見る)行為、そして8年前のテキストを読む行為、そこには色々な意味での連続性を見て取ることができるであろう一方で、色々な意味での断絶を感じることがある。「あの場所があった/今はない」「あの人がいた/今はいない」というようなこと。そして同時にそのときは知らなかったことを今は知っているということももちろんある。当時は知り合っていなかった人が自分の生活にとって大きな存在になっているということもある。具体的な事柄から遠ざかってしまった。


・更新する、ということの難しさと面白さを考えていた。更新する、と思って新しい情報を導入してみても、やり方自体が、フォーマット自体が、枠組み自体が変わらないと本質的な変化はない。あるいは本来的な意味での「更新」もない。機械は強制的に枠組み自体を変えるきっかけのひとつではあるだろう。こうした思考を進めてみて、自己啓発的な論法で考えることを抑制しつつも、しかし言葉を書くことも「別の方法」を試さなければ、それは更新することの困難を確認するための行為に留まるだろう。自分の手の届く範囲でのあれやこれやを組み立てることよりも、自分自身が変化し続けることで(結果的に)組み立てられる対象ともなるような意識の分散あるいは二重化というようなことはどうしたら実践できるのか。


・本当にどっきりするような文章はさりげなく存在している。さりげなく雑誌のコラムとか、現代文の参考書のテキストとかに存在している。業務で使うかなと思って某大型古書センターの均一棚から適当に購入した現代文の参考書に載っていた小林康夫「いま、芸術とはなにか?」という文章を読んで、しばらく動けなくなって、そしてそこから色々なことを考えようとする。このテキストの数ページには、自分が修士論文の結論として書きたかったこと(そして書ききれなかったこと)が圧縮されている。(誤解を恐れず)端的にまとめれば「情報化社会において芸術は可能か?」という問い、それに対して自分は技術と環境の側からアプローチできないかと考えているのだけれども、このテキストではむしろ「私」の側からそれを可能であると言えるような「哲学」を立てようとしている。そのことの確かさにどっきりする、自分のプログラムが解除される、そのことからまた始めようとする。と言えば聞こえはいいけれども、つまりある文章を読んで、その文章に自分の弱点がはっきりと言い当てられたと思って、さて、ではどうするかということ。

(略)趣味の好悪の判断は基本的に自己のうちに閉じています。それは、他者との係争にみずからをさらすことを拒否すらします。「あなたに迷惑がかかるわけでもなし、わたしが趣味としてこれこれが好きだということをあなたにとやかく言われる筋合いはない」というわけです。これはあまりにも正当な言明なので、誰もそれを有効に批判することができません。この言明は、ただ「わたしも同じようにそれが好きだ」という言明しか求めていません。コミュニケーションは趣味の確認的共有になり、そこに小共同体が成立することになります。現代の高度な資本主義社会はまさにある意味では究極と言っていいこのタイプの判断を無意識的に、しかしシステム的に動員します。この資本主義のもとでは、すべてがそうした趣味判断へと差し出されたものとなるのです。

この趣味判断の行動様式が、商品だけではなく、政治、ひょっとすると宗教にすら適用されかねない歴史的な局面にわれわれはいるのです。趣味の総動員態勢とでも呼ぶべき時代をわれわれは生きています。ヴァルター・ベンヤミンは先ほど触れた『複製技術時代の芸術』という論文の末尾で、荒れ狂うナチズムの嵐を凝視しつつ、「政治の美学化」を激しく批判し、それに対しては「芸術の政治化を対峙する」と宣言していました。だが、もはや「芸術化」は政治的な権力の独占的領域ではないのです。それは、個人というもっともミクロな神話装置を通じての、全存在の芸術化なのです。しかも個人の自由という権能としての美学化なのです。すでに芸術はわれわれの歴史の根源的な基盤に組み込まれています。芸術はそこらじゅうにあるのです。

とすれば、どうするか?いや、どうにかするべきなのか?それに対するわたしの答えは、いまだに直観的なものにとどまっていますが、ベンヤミンに倣って言うなら、「政治化」とは言わない、むしろ「芸術の倫理化」を以て対決する、ということになるでしょうか。それはひと言で言えば、もし芸術が、一般化する存在の美学的な組織化として考えられるならば、その趣味的な自己組織のなかに、どのように異質な他者への創造的な関係が場を開いているかを問うということになるでしょう。