&

  映像研究

読書の記録

「良心」は最終的に宗教的な抑圧の沈黙を破ると即座に種族的になり、初めて残酷な公衆の狂騒に参加する。良心の疚しさという支配的な本能をなだめるために社会的な生贄の羊を用意すること、これが完全な技術性の文化における公共生活のレトリックである。デジタル神経のビジネスの論理を逸脱すると罰せられ、常に加速していて、神経をすり減らし、過剰に管理され、過剰にデジタル化され、過剰決定され、不安で顔を歪め、本能的な競争心で身体を消耗させ、データ・マイニング(統計学など各種のデータ解析の技法を大量のデータに網羅的に適用して知識を取り出す技術)でデジタルの網に捕らえられ、フォローチャート化され、無線で交信する(デジタルな)主権者的個体は、いうなれば、意志の中に焼きつけられるすべての(データの)記憶装置である。それはデジタルに感情を害する。それは、プレッシャーがあると大きく傷口を開く。それは消滅したいと望む。それは消滅する。しかし、それは常に(デジタルな)時間の中に自らを見出す。(略)情報技術に支配される文化において、「主権者的個体」はデジタル神経の主なベクトルラインと統合するか、人間の名残として処分されねばならない。ここでは、意志の中に焼きつけられる(デジタルな)記憶が、潜在的な未来の肉体とソフトウェアのインターフェイスであり、身体を放棄してデジタル神経の循環する組織細胞になる。データ・ボディの記憶術では、肉体は流動化されるのである。

ニュー・エコノミー下の商業文化において、意志を持った人間主体に提要される過激な実験手技のこの冒険の産物が「眼球文化(アイボール・カルチャー)」と呼ばれるものである。これは、人間主体がデジタル・ナーバス・システムの外部感覚器官に取り込まれて消滅し、監視され、計測され、吸収され、マッサージされ、操作され、流動化され、再構成されることである。実際、今日、商業的なニューメディアのサイトが懸命に、自分たちのブランドの広告主にどれだけ多くの「眼球(アイボール)」を提供できるか自慢する権利を共有しようとしているとき、これは単にデジタル文化の商品化にとどまらないはるかに深い何か、暗く荒涼としたものに根ざしている。それは心理・人間学の問題、すなわち、デジタルな身体が収奪されて、感覚を感知するために特化され、拡大された器官となることである。それは人間が疎外されている未来図である。ここで、統合された人間主体は破壊されて、(電子的に)疎外された感覚器官となる。つまり、ほとんどのものが、デジタル・アイ、電脳耳(サイバー・イアー)、人工的な味覚、遠隔操作感覚の触覚、仮想嗅覚となるのである。ニュー・エコノミーの「達人」が不可欠な理由は、彼らが「羨望の的となる人々」として教訓的な役割を演じ、「二世紀にわたる良心の生体解剖と千年にわたる自己拷問」を創造的に継承する、技術的な実験主義精神の体現者であるためである。

A・クローカー『技術への意志とニヒリズムの文化』