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  映像研究

コミュニケーションでもなくファンタジーでもなく

 
・ときどき見る映像がある。「イメージについての絶望」。見るというよりは声を聞くために再生する映像がある。「コミュニケーションでもなく・・・」「手段でもなく目的でもなく・・・」「芸術でもなく技術でもなく・・・」そうした追い詰め方をすることができるかどうか。過去の自分がいかにも表面的なイメージをつくっているようであっても、後から考えるとそれはそれで、ある迫り方をしていたのかもしれないと思うようなこともある。目で見るすべてが写真に撮る対象として掴もうとされるような生活がある。それが良いことだとは思わないまでも。それは快楽ではある。事物や状況を言葉に対応させるような意識は忘れ去ることができている。それ以前に相当に言葉に浸透されているにせよ。写真を撮る快楽、写真を見る快楽を、それはそれとして(肯定とまでは言わずとも)捉えるところから始まる思考もある。


・業務が終わった後に同僚と飲食しながらあれこれと話していて、こうしたネットワーク環境で、10代の人がわざわざ実名で活動をすることの覚悟という話をしていた。そんなことに逡巡しようがダメージを喰らおうが知ったことかという気持ちの他に、しかしやはりそれは相当に凄いことなのではないかという気持ちもある。そういう名前を明かすことを選んだ人と話してみたいと思う一方で、実名でもなく、ニックネームでもなく、そもそもネットワークに登録しない、という人とも話をしてみたい。そういう人が持っている時間があるはずだと思う。この環境の「外」とは言わない。「外」は適当ではないように思う。「アジール」か。「眠り」か。中断。