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  映像研究

ともすれば

 
・ともすれば、絶望的とまでは思わなくとも、自分が考えていることと、自分が業務でやるべきこととされている(教える)ことの距離に打ちのめそうになる。遠いあるいは深い。そこで「ニーズ」と呼ばれるものを見続けながらも、しかし完全にそれに引きずられてしまってはどうしようもない。大学という場所はかつてのいつかも同じようであったのだろうかと考えてみて、それはそういうものであったのかもしれないと思う。折に触れて思い返すのは学部の特に前半の時期の自分自身のどうしようもなく学ぶ姿勢の出来ていなさで、何事も染み入ることのない開かれていなさ、それはもう全然だめだったと思う。そしてそういう自分がその後どうなったかはさておいて、例えばそういう人間。例えばそういう人間にどういう言葉ならば届くのだろう。いつでも自分と同じくらいあるいは自分よりもさらに面倒な人間を想定した上でプログラムを作らないと空回りしてしまうだろう。


・千葉雅也という人の『勉強の哲学』という本の導入部分を読んでみて、きっとこれは必要な文章なのだと感じた。もちろんそこで「この文章すら読み通すことができないような...」と言ってみたりすることもできるだろう。だけれどもそんなことには意味がない。まずは文字を、文章を読んで何事かを考えなければいけない。そしてそれはSNSスマートフォンを前提とした、この場所で、何ができるのかという、ともすれば、絶望的とまでは思わなくとも、とにかく難しそうな問いになる。


・例えば、具体的に、キャラクターを見ることとキャラクターを描くこと。あるタイプの(とカテゴリーにしては良くないのか)学生にとって、それは何を意味するのか。気に入ったイラストレーションをネットで発見することと、それを真似て自分でもイラストレーションを描いてみること。そしてそれを再びネットに投げること。自分を慰めるような種類の言葉とともに。そういったことが生活で、それ以外の事柄は基本的には「義務的なこと」でしかないような人間がいる。例えばそういう種類の制作行為=生活に対して、別の人間は日々の生活の気に留まった光景を撮影してInstagramにアップロードする。写真とイラストレーションの違い。しかしそのことは何が違うのか。ファッションの、趣味の、違いなのか。あるいはリアルが充実しているとInstagramになり、充実していないとイラストレーションを描き始めるのか。しかしそもそも何がリアルなのだろう。


・そこでは最終的には、オフィシャルに(全体に向けて)「すべては趣味の問題です」と言うことにするかもしれない。絵を描く人も、写真を撮る人も、物語に没入する人も、言葉を発したい人も、静かな人も、洋服に興味がある人も、色々いて良いんです、と。しかしその一方では、ゼミナール的なフレームを想定して、その濃度をカスタマイズしながら、必要に応じて、自分が考えていることを、話すかもしれない。そこで堕天使的にもならず、弾圧されているていを演じず、なおかつ「バカを演じる」などとも言わず、ただただ楽観的であること。自分が自由になる代わりに課せられた課題の一つは、そうした意味での教育に関する振る舞いの選択なのだと考えた。あるいはプログラム設計の原理に関わること。一瞬でも、一言でも、言葉にはっとして、楽しいとか、生き生きするなとか思うことは前提あるいは入口であるとして、それとともに本当に考えるべきことは、写真あるいは映像によって現実の光景を記録することの力に触れること。触れさせること。一枚の写真を見たとして、それが自分が今まで見たことのあるどの写真とも違っていることに気づいて、その事実の上で成立しているそのイメージに感動すること。そういう状況を作ることができるのか。「作る」べきなのか。問いは立つ。しかしまだこれはただのエスキースだ。


・備忘録ですらない、日記としての日記を夜中に書いているのだからしょうがない。いま感じていることは、ようやく正しい意味で(というか、今考えうる限りの最善の意味で)ひとりになることができた、ということ。ひとりで考えて、ひとりでかたちにする。そういうことが許される幸福を思う。