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  映像研究

実写映像

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・202209031824。住んでいる場所から見える風景には時々電車が通る。静かな時間ならば音も聞こえるだろうか。しかし電車の音が気になることは普段あまりなく、それは生活の環境に溶けている、ということだと思う。そう考えれば、この場所に住所を定めてからもうすぐ7年が経とうとしている。

 

・傾き始めた光の感じを写そうとしたらちょうど電車が横切る。写した。

 

・作業をする土曜日。集中、集中、と唱えるたびにあらゆる雑念が襲いかかってくる。それでも文章を書く作業に関して、しばらく置いておいた序論部分(25,000字)を読み返して、整えることができたことは良かった。しばらくはこのようにして読み直して整えることをしながら結論部分を模索することになる。そして事務的な事柄を確実に。

 

・Bialystocksの『灯台』という曲のMVがYoutubeに公開されたことがおしらせされて何度か試聴する。これほどに「見えない」映像があるのかというくらいに、何が映っていると形容し難い映像。しかし抽象ではない。確かに何かが映っている。存在が。その何かを「空気」と言ってみることもできる。「雰囲気」のようなことではなく、地上に満ちている「大気」という意味で。だからそれは「実写映像」であることのかすかなしるしだけが映っている映像と言えるかもしれなかった。

 

・暗い映像。闇を写した映像。これは矛盾した語だが、そうとしか言えない映像がある。デスクライトを消して、ノートPCをフルスクリーンにしてみても、その闇の暗さに適わない。この映像を見るためには劇場のような装置が必要なのだろうか。そう思って調べれば、11月に公開される映画の映像で構成されているという。写真だけでなく、映画という実写映像における光と闇についても、もう少し考えてみたい。たとえばソクーロフの映画をもう一度映画館で見る機会はあるだろうか。

 

・同時に公開されていたインタビューで「尖るのは簡単」と語られていて良いなと思う。映像も音もカタルシス的なものは抑制されている。しかし捉えどころのないままに最後を迎えてふっと映る「顔」には引き込まれる。驚きのような表情。現実に戻されるような動作の感じも。期待させられる。

 

 

・と、そのように考えて、書いてみたのは、昨日業務で面談をしていて「実写映像」ということについて意見を交換していたことも関係しているだろうか。今日もそういえば一日「実写映像」について考えていた。自分の書く作業はいつでも「『実写映像』について考える」ことと同義であるかもしれない。これほどまでにデジタルデータによって生成されたイラストレーションが全面化した環境で、「実写映像」を欲望することは、それ自体が一種の業のようなものではないか、と最近よく思う。自分よりはるかに年齢の少ない者、いわゆる「若い人」でも、何人かあるいは何十人かに一人くらいに「実写映像」を求める欲望が取り憑いてしまう。「取り憑く」という感じ。そういうイメージを持っている。それはだから選択する(選択できる)ことではないのかもしれなかった。

 

・一方で、「実写映像」ではない「映像」もある。昨晩夕食を食べつつ家族と見つけたNHKプラスの『夜光音楽』というボーカロイドの歴史を辿る番組を「勉強のために」とおそるおそる試聴したが、最初から最後まで何事も共感できず、それを求める欲望が一切不明だった。ここには「映像」というぼんやりとした概念のうちの決定的な断絶があるのかもしれない。政治とも宗教とも異なる(が完全に重ならないのかどうかは考察の余地がある)、現代的な思想の問題があるのかもしれない。と煽るでもなくメモとして。

 

・去年のこの時期にはこの欲望を「現実に対するフェティッシュ」と呼んでみた。「現実」なるものを「写真で見たい」「実写映像で見たい」ということ。そしてその欲望を持つ主体にとって「写す」こととは何か。ずっと考えている。メモとして。