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  映像研究

あけました

 
・あっという間に2015年になっておめでとうございます。テキストを書くことからすっかり離れていた。日記を書くことから離れていたのは一ヶ月と少しだけれども感覚としてはもう少し離れていた。テキストを書くことからすっかり離れているとあっという間に時間が飛び去ってしまう。そうしてその間に2015年になる。驚きとともに見る2015という表記。驚くということさえすっかり忘れてしまっていたかもしれない。思えば「喪に服す」ということを文字通りの言い訳にしながら過ごしてきたような2014年だった。例えば去年の今日のことをまるで今のことのようにというのは大げさであるにしても相当に近しい気持ちで思い出せるけれども、その間にはいくつかの/いくつもの切断があって、同時に無力感や怯えがあった。まさかこのような気持ちで2014年を駆け抜ける(のろのろと)ことになるとは思っていなかったけれども、それもまた今となっては過去の出来事である。


・それはまたテキストを書くことに対する無力感や怯えでもあるかもしれない。年頭に全く相応しくないような記述が続くけれども、それは一体どういうことだろうか。SNSに書かれたテキストを目で追っていても、あるいはそこで誰かによって指し示されたテキストを目で追っていても、まったく心ときめくような文章に出会うことがない。多くのテキストは誰かへの攻撃か、自分を正当化するためのものか、面倒な事柄を一瞬忘れるためのものか、それらの目的に対するより複雑な方法か、いずれにせよ変わらずに「私は最新の私である」ということの広告のようである。そういう種類のテキストが書かれる必然性があって、そういう種類のテキストが書かれなければいけないような心理があって、そういう種類のテキストが回り回って利益を生む。そういったことは理解できようとも、どうにも息苦しく感じるならば、では、どうしたら良いか。


・「面と向かって言えないようなことをネットワークに書き込むべきではない」と書いてみて、それもまた書いていること自体が書いている内容を裏切っているのだろう。「ああいうの、ちょっとどうかと思うよね」とお酒を飲みながら話せば済むことが沢山ある。陰謀的な語り口からは可能な限り距離を置きたいと思うけれども、しかしこうした逡巡に気を取られていることは、何か本来であれば安価でありすぎるようなインターネットに接続していることに対する税金を払っているような気にもなる。お金で払うことができない税金は時間で払う。あるいは注意で払う。心配事で何も考えられなくなるような心理で払う。SNSに書かれた不満が全て自分に向けられていると感じてしまうような心理で支払っている。SNSで論争することで大切な人との繋がりを失うことで払っている。そういえば普通にネットゲームに課金している人もいた。そうして気がつけばしっかりと徴税されていることに対して、あるいは自分もまたそのような徴税のシステムの構築を手伝っていることに対して、誰もがもう少し自覚的であった方が良いと思う。


・そして書く。そしてそういった状況に対して何か試みたいと思いながらも、実験室の中で計算式を考えている間に2014年は終わってしまった。年明けの休みにふと自分のここ数年の仕事(業務以外の雑誌での撮影など)を振り返ってみて、その仕事をしていたときの感覚と今現在は随分と違う状況にいると思う。単純にもう少し楽観的だった。例えばふと「異質なもの同士の接続」と書いてみて、そういったことをもう少し具体的なこととして想像することができたし、現に「異質なもの同士の接続」は、少なくとも自分の身の回りに日常的な事柄として存在していた。今そのときと全く同じことをもう一度言えるのか。「おもしろき・こともなき世を・おもしろく」と一句詠むことを続けることができる人のタフさを思い出さなければいけないのか。


・イメージをつくり出すことはどうか。写真を撮る。あるいは動画を撮る。それはあまりにも有り触れていることになった。それは本当に驚くほど有り触れたことになって、もしかするとそうしたことも今の自分にしてみれば怯えや無力感の原因であるかもしれないけれども、いずれにしてもイメージ自体の価値は完全にインフレーションを起こしていて、今まではスノッブな?言い方として「イメージはスペクタクルであることをすっかり越えて今や完全に公害的である」と考えていたことは、あっという間に一般的な理解になった。誰もが「写真や映像はもう結構」と思っているかもしれない。そしてイメージはつねに労働と結びついているのだから写真や映像から逃れることが休息の第一条件であるような生活がある。どうにも退行的であると理解しながらも、やはりフィルムで写真を撮ることに戻ってみようか。街の古い写真館でこれから毎年家族写真を撮ってみようか。「写真を撮った」ということをインターネットに報告しない。その写真が存在していることを知っているのはその写真を撮った人と撮られた人だけである。共有しない。時々家に遊びにきた人に見せて話をする。そこまで戻らなければいけないのか。それは戻っているのか。進んでいるのか。そうした状況を仮想してみる。インターネットへの信仰心から遠ざかるための実験を誰もが密かに考えているのかもしれない。しかし現実のテクノロジーは別の方向に向かっているように思われる。


・イメージとイメージが接続すること(されること)の可能性はまたそれとは別にある。別にあるのだろうと思っている。異なる文脈に属するもの同士が、その文脈にあり続けながら、しかし出会う、そのことの可能性をまずはイメージのレベルで考えてみる。しかしその可能性は待っていて訪れるわけではないし、どちらかというと遠ざかっていくそして逃げ去っていく。ただでさえイメージは流れ去っていく。だからひとつにはその様子を流れ去ってしまう前に文章で記述あるいは描写しなくてはいけない。これは当面の自分にとっての課題。


・人と人が集まることはどうか。人が集まることにはつねに可能性がある。本質的な意味での「異質なもの同士の接続」は人と人との出会いにしか存在しないかもしれない。イメージとイメージの接続は人と人が集まることの模型でしかない。直接五感で感じられる種類の出会いは空間を建築を必要とする。場所を伴った出会いに対する意味をもう少し考えなくてはいけないし、自分自身がトレーニングのように時々は人と出会っていなければいけない。同時にその場所は究極的には自分自身で建築しなければいけないのかもしれないとふと思う。構造物を自分自身で操作しなくとも、自分自身で自分自身が他者と出会うための空間の構造を考えて(設計)、実現しなくてはいけない(建築)。他者が建築した空間で遊んでいることにはおそらく限界がある。そうして考えていることの道筋のひとつは、住居とコミュニティの問題に接続される。そういえば2014年に心ときめいたテキストのひとつは山本理顕さんの『個人と国家の〈間〉を設計せよ』というものだった。それを読んだことによってアーレントベンヤミンをまた別の仕方で読み直す必要に出会ったのだった。あるいはその空間と建築への関心は、教室の問題つまり教育の問題にも接続される。学校、病院、店。多くの空間がある。


・そういう意味で「ワンオペ」は危険だ。肉体的精神的な危険はもちろんのことながら、または経費が削減されているということから生活そのものの危険がありつつも、全く違った意味で、つまりオペレーションしている者同士が出会わないことそれ自体が危険だ。コンビニエンス・ストアの隣のレジで、学生と非学生が、主婦とバンドマンが、高校生と中年が、出会わないことがなによりも危険だと思う。隣のレジで袖振り合う時の多生の縁が消えていく。別に恋愛に発展した結果家族を形成しなくとも、もしくは労働についての不満を話し合った結果組合が立ち上がらなかろうとも、原理的に「人と人とが出会わないこと」「人が機械とのみ向き合っていること」が危険であるように思う。あるいは「人がイメージとのみ向き合っていること」「人がネットワークとのみ向き合っていること」も同様に危険なのか。ハードディスクがクラッシュすることやインターネットに接続できないことは本当に困るけれども、それさえも別の視点から考えてみれば、突然工場のベルトコンベアが止まるようなことだ。ベルトコンベアが止まれば困る。しかし長い時間が過ぎればその「困ったこと」はまた別様に回想されることがあるかもしれない。ラッダイト運動が起こることは想像しづらい。しかしいずれにせよ「ワンオペ的なもの」については、もう少し考えてみたい。


・以上のような事例も含めて「完全にやられっぱなし」だという暫定的な結論が導き出されそうになる。「ワンオペ」と「ネットゲーム」にすっかりやられている(ゲーム感覚のSNSやネットショッピングも含めて)。それは自分もそうなのだ。そうした中にあって本を読むことさえもセラピーぎりぎりなので、いかにそこに革命的な記述が記されてようと、本を読むことそれ自体から簡単に対抗的な発想が出てくるようにも思えない。もちろん「現場」はある。あらゆるところに現場も前線もあって、そこではつねに力と力とがせめぎあっている。その力をみたり、自分自身がその力になったり、その力を描写して他の誰かに伝えたりすることは、変わらずに重要なことであると思うけれども。


・少し前に読んだ『図書新聞』で廣瀬純さんが「搾取の終焉、勇気の時代」というテキストで書いていたことは「資本主義が人を生かしてそこから利益を引き出す時代は終わった」と。「資本主義は死ぬまで利益を引き出そうとしている」と。自分はそうした分析は相当に説得力があるように思った。おそらく今現在労働している人のある一定の割合の人は「自分が寿命まで生きられないのではないか」と思っている。「寿命まで生きる」ということは「なんとか逃げ切る」というイメージで、しかしどうやらこの先逃げ切ることは相当に難しそうだ。そのようなことが頭をよぎる。頭をよぎっているどころか、そのような疑いにつねに脅かされていて、ある程度までいくと、半ばそれを信じている。信じるようになる。いくつかの偶然(その偶然は相対的に死ぬ可能性が少ない者の都合によっても左右されるのだろう)が重なれば、簡単に自分は死ぬと思っている。それは戦時ないし収容所に置かれた者の心理に「似ている」。「そんなことないよ」と言いながら、「だって楽しいこともあるじゃないか」と言うけれども、それは戦時にだって「楽しいこと」はあるのだろう。絶望を一瞬忘れるような「楽しいこと」は、それが自分が見つけたものであれ、与えられたものであれ、存在するには存在する。だから「楽しいこと『も』あるのだ」ということは問題の核心ではない。


・「象徴の貧困」とか言う以前に本当の貧困がある。柄谷行人という人が書くような、資本=ネイション=国家はそれが打ち倒すべき敵であると想定するかどうかはさしあたり保留するにしても、確かにしっかりと結びついているのだろうと思われるし、資本=ネイション=国家はともかくものすごい速度で(人間には不可能な速度で)計算をしているのだろう。なんとかぎりぎり個体が死ぬことがないレベルを探り(雇用対策)、なんとかぎりぎりで個体が減りすぎることもないレベルを探り(少子化対策)、それらを元に可能な限り実体のない価値を大きくするための最善のバランスを維持するために計算をし続けているのだろう。それはひとつの企業の中でもやはりそうなのだ。なんとか今日一日肉体的精神的に死なずに労働し明日もワンオペできるぎりぎり最低の賃金が幾らであるのか、経営者チームはそれを(それだけを)ひたすら計算している。1円単位で(あるいはそれ以下で)計算し続けてアップデートし続けている。それが悪いとか悪くないとかではなくてその「計算すること」が「仕事」なのだ。当然計算そのものはコンピュータで行うこともあるだろう。コンピュータにできない微妙なところは人間の人間らしい部分で遂行する(感情)。しかしそれが「人を生かしてそこから利益を引き出す」ことであるとして、それが終わったということは?


・総理大臣をヒットラーになぞらえるようなユーモアに対して(それは本当に誰もがそのようなちょっかいの可能性を考えてみるべきであるようなことだと思いつつも)どこか心ときめかないのは、それは総理大臣もまた「計算をする人」であり、そうでしかないと思うからだ。例えば計算をする人に対して「人権をどう思っているのですか?」と問いただそうとしたところで、計算をする人は「私は計算をしています」と答えるのではないか。「私は計算をすることが仕事です」という人に対して、計算以外の言葉で語りかけることは空しい。


・そうした中でまずは環境の悪い労働のボイコットは正しいだろう。そのボイコットで一企業が消えることがあってもそれで全体が変化しないとしても、そうした環境の悪い労働をボイコットすることによって、まずは生き延びる。生き延びなければ始まらない。そしてさらに大切なことは「自分自身が計算される対象であることから一瞬身を引き離す」ことで、そうした位置にいることが永続的に続かないとしても、心理的にはそのことの影響は大きいのではないか。あるいはむしろ逆に労働から離れることが「自分自身には価値がないのではないか」と思い悩むような心理を生んでしまうようなことがあるのならば、同時に「労働の外にも(むしろそちらの方に)価値はある」ということを考えなければいけない。貧困は孤独と繋がっている。だからそれはつねに複数で考える。考えること自体が希望でありながらも、実践的な行動/試行を構想するような、そういう「考え方」があるのではないかと思う。もちろんそれは商業化したスピリチュアルなものなどではなく、もっと普通なこととして。日常として。


・中断する。中断すると書かなければいけないテキストから逃げるために、準備運動として書きはじめた文章が別のかたちを持っていたことに気づく。またいつか別の入り口から書き始める。1月と2月の上旬はいつでも恐ろしい。風邪に気をつける。