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  映像研究

かたちについて

 

・足の指の骨が折れたなりの生活がある。「走る」コマンドが選択できない暮らしがある。それでも比較的普通に生活している。生活には、暮らしには、色々な「かたち」がある。日々たとえば電車で、職場で、お店で、歩いている人の、その歩きかたに注目してしまう。色々な歩きかたがあるし、色々な姿勢がある。歩くことを全く意識せずに歩いている人がいれば、おそらくは歩くことに意識を集中させて歩いている人がいる。例えばいま自分の歩きかたはどのように見えているのだろう。かた、あるいは、かたちについて。


・車のことを足と言うように移動することは足だ。足が少しでも不自由ならば公共空間に足を探す。エスカレーターやエレベーターあるいは足をサポートするための手すりや壁を探す。現在地点から目的地までの最短距離を考える。日々そういうことを考える生活があるのだなと、初めて気がつくことがある。


・年齢を重ねると「からだの話」をするようになるのは本当なのか。中年から初老になれば病気や病院の話で盛り上がるのは、例えば受験生が受験を目前に妙な連帯感でハイテンションになるみたいなことなのか。からだのことは(それが生死に関わらない限りにおいて)結構悲しいことでも笑いながら人に話してしまったりすることもある。あるいはそうすることで何かのバランスをとっているのか、どうなのか。備忘録を読み返してみたならば、2010年の大晦日に山登りで転んで手の指をけがしていた。骨折はしていなかったけども、微妙な違和感はずっと残りつづける。指をぴんと伸ばすことはできない。たとえばそのような、小さいけれども決定的な(不可逆の)からだの不自由から何を考えるか。


・高校生くらいの頃に「シールを貼れる人になることが目標です」と言ってみた。シールを貼ることは難しい。シールには暗い記憶が宿る。実家のタンスには往々にしてどうしようもないシールが貼られているのだから、見るたびに何とも言えない気持ちになった。高校生にはそのシールが、そのシールが放つ雰囲気が、流行は移り変わるものだという事実が、シールが物質として褪せていくことが、諸々許せなかった。だけれども「あえてシールを貼る」というのは、どういうことか。それは「取り返しのつかないことをする」ということなのだと思う。高校生には「取り返しのつかないことをする」ことは恐ろしい。お金を払って購入したすべての物は、購入した金額の6割程度で売却することが可能だと思っている。あるいはレアものならば、購入した金額以上の金額で売却できるかもしれないはずだった。


・「シールを貼る」ことで基本的には、その物は売却することができなくなる。それは、手放すことができないその物と一生つき合っていくということに他ならない。繰り返せば、そのことはある一定の年齢以下の人間(あるいはそうしたメンタリティを保存している人間)にとっては、恐ろしいことなのだと思う。あるいは賃貸のアパートメントに住んだならば「現状復帰」と言われる。「現状」に「復帰」ってなんだよ、と思う。現状に復帰することなんてできない。二年経てば二年の時間の物質が堆積する。「あ、シール貼りたい」と思えばシールを貼る。そうしてシールを貼ってしまった物は家に居座りつづける。色が褪せようと、端がちょっとはがれかけようと、そこにシールは貼られているし、シールが貼られた物は、シールが貼られた物として、そこに在りつづける。そしてその物を見つめれば見つめるほど、くらくらするような気持ちになる。


・(これは想像でしかないけれども)からだにタトゥーをする人の心理もことあたりにある。自分のからだが相対的なものとして(?)感じられてしまうそのときに、自分のからだは他の人のからだとは違う「このからだ」であるということを、何よりも自分が思えるようになるにはどうしたら良いのか。そのときに自分のからだが自分のからだであることを指し示すための目印が必要とされるのではなかったか。そのような心理的なテクノロジーとしてのタトゥーのことを考える。


・あるいは石内都という写真家の『scars』というシリーズの写真を見ていて、どこか安らぐような気持ちになるのは、どういうことなのか。人を、人のからだを物のように見つめることは、物体を人のように見つめる、あるいは物体と人を区別することなく見つめるような視線を得るための入り口になる。そうした視線が本当に、誰にとっても、必要なことであるのかどうかわからない。わからないなりに自分はそのように「見る」ことをしようとする。


・だからこそこの世で最も恐怖するべきことはスマートフォンではなくて「ダメージ加工されたジーンズである」という発想が生まれる。その浅ましさには何か罪深いものが在る。歴史を金で買おうとする者の浅薄さがある。そして「現状に復帰できる=時間は流れない」という考えは論外だとして、時間を一瞬にして獲得しようとすることに気をつけようと思う。さしあたりタトゥーからは遠いところにいる。つまり、自分が自分であると感じられるような決定的に「取り返しがつかない」経験というものは、偶然出会わなければならない。事故として出会わなければならない。それは日常的な、快-不快という基準を飛び越えて、何か「くらくらするような」ショックをひきおこす。そのショックは認識の根底に関わることであると同時に、危険なことでもある。