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  映像研究

夏の労働は続くよ

 
・夏の労働は続くが、どこまでもは続かない。それは8月24日に一応終わる。そのように「一応は一度終わる」という意味においてそれは、例えばチェルフィッチュの舞台『フリータイム』で描かれていたような「朝のファミレス30分だけが救いである」というような労働のあり方とは違っている。ずっとこの先も同じように続いていく、ということに憂鬱さを感じるのだから、一日の時間の中にあるアジールのような場所を作るという発想はない。自分の場合はむしろ期間で区切れている。春と秋は比較的自由だ。そのようにして色々な点において「朝のファミレス30分」とは違っているけれども、しかしこの国の大きな時代の区分においては、さして変わらないかもしれない。今は駅前のコーヒー店で少し時間があったから自由な朝の時間を過ごしている。労働について考えることがある。そういえば『風立ちぬ』さえも労働についての映画として観たりしたかもしてなかった。そしてもう少し時間があればと思う。図書館へ行って、棚から本を探して、本を読み、何かを書き記したりする、その時間だけが足りない。


・どうして人のからだは変化するのだろうと時々不思議に思う。子供は飛んでいきそうなくらいに軽く跳ねるのだけれども、中年はなぜあのように重くなおかつしなやかな動きをするのか。久しぶりに会った人の印象が変わっていて、それはその人の持っていた動きが、具体的な動作の種類としても(リュック背負ってた人がハンドバッグ持ってるとか)、そしてそのからだが持っている重さの印象としても変化しているということなのだけれども(体重の変化だけではない)、そういう変化するということを自分にも起こること(起こっていること)として考えたことがなかった。多分例えば6年くらい前と全然違うからだをしているだろうと思う。12年前は大学生のようなからだをしていたはずだった。ファッションはそういうこととも関係があるところがきっと面白いのだと思う。驚くほどに数年前まで普通に着ていた洋服が似合わない。自分の着る物だと思えない。それは流行ということとは(少しは関係あるかもしれないけど)ほとんど関係のないことなのだと思う。もちろん文脈はある。日本という場所で、この年齢の人間が、このような生活をしていて、そしてこういう服を着るということが、どのような「感じ」を示しているか、ということとは関係がある。だけれどもそれはやっぱり「からだが変化している」としか言いようがないのだった。


・そしてからだに気をつけながら夏の終わりを過ごす。