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  映像研究

色々なことがある

 
・色々なことがある。ささやかな出来事も劇的な出来事も起こり続けている。それにしてもこの一年くらいは思わず「30年くらいささやかな出来事ばかりを引きあてていたから、溜まっていた劇的な方を一気に引いちゃっているのではないか」と思ってしまうような出来事が起こり続けているような気がする。驚き続けている。好ましい驚きもあればあまり好ましくない驚きもある。そしてその驚きの中で、一体何が書き記しておくことで、何が書き記さない出来事なのか、あるいは何が書き記しておかなければいけないことで、何が書き記してはいけない出来事なのか、わからなくなってしまった。


・劇的な出来事は「物語りのような出来事」ということなのか。頼りない疑問を空中に投げてみて、それもわからない。いつか/どこかの物語りで見た/読んだことがあるような出来事が目の前で起こった時に、それをまさに自分に起こっていることだと理解するのに時間を要する。これまで自分は考えたことがなかったような事柄が一気に自分のからだの中に流れ込む。それは現実の出来事が流れ込むと同時に「言葉」が流れ込んでくるということかもしれない。


・「5年生存率」という言葉を昨日生まれて初めて聞いた/知った。「5年後に生きている確率」ということで、例えば「5年生存率が50%」と言われたならば、その反対には「5年以内に亡くなる確率が50%」という予測が存在するということだそうだ。そういう知らなかった言葉が、自分のからだの中に流れ込んできたならば、立っているのが大変なほどの身体的な反応が起こる。自分が生活している毎日の感じが、見ている風景が、一気に違ったものに感じられてしまう。そういう種類の驚きがあるということを知る。そしてそういう驚きをきっと多くの人が知っていて、そしてそれでも何とかやり過ごしたりしながら生活していたりすることを、凄いことだなぁと思ってしまった。子供のような感想が思い浮かぶ。


・例えば「私は」という主語を忘れるほどに、目の前の物体をただ見つめるようなことが、いつか/かつてあったような思いがある。鉱物や植物をスキャンするような視線、カメラで端的に写し取ったならば、その写真をいつまでも眺めていることができるような意識のあり方も、いつか/かつて自分の身体にあったような思いがある。そして/しかし、今はそれとは違うのだと思う。そのような「見ること」が自分の日常的な身体的感覚であったことを、どこか過去の感じとして思う。「私は」という言葉を必要とするような時がある。出来事がある。そして祈ることに似ているような言葉を、自分は知っている(not スピリチュアル)。「うた」とか「詩」とかでなくても、目の前の人に投げる言葉が、質感を持っているように感じられることがあるだろう。


・記しておきたいと思ったことは「こういうことがあった」ということだった。事実を言葉として、交わされた会話として、自分のからだに起こった反応として、記しておきたかった。そしてもちろん「記す」という行為自体が自分のコンディションの調整になる。出来事との距離を測ろうとする。例えば出来事を過去形で記したならば、それは過去の出来事になった。そして今この瞬間に起こっていない種類の出来事と、今この瞬間にも起こり続けている種類の出来事を、整理したかった。それを続ける。