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  映像研究

回想をつづける

 
若葉台の駅前のコーヒー店のエア・コンディショナーが復旧したようなので、そこにいる。もうすぐ夏が終わる。「またひとつ夏が終わる」というのは90年代のスピッツの曲で、その曲を聴くといつでも高校のホームルーム合宿で真冬に沖縄に行ったことを思い出すことができる。デヴェンドラ・バンハートという人の『Heard Somebody Say』という曲を聴くと、深夜に高速を走って1泊3日で(しかも車中泊)越後妻有トリエンナーレへ行った2006年のどんよりした夏を思い出すし、pupaの『Anywhere』を聴くと、高尾に引っ越した秋の初めに薪になりそうな木を拾いながら焚き火ができそうな場所を探していたことを思い出す。夏の終わりと秋の始まりの記憶について。


・昨日の教室で「こんな作品もあるよ」ということで上映したチェルフィチュ『三月の5日間』を観ていて同僚は、その作品が上演されたのが2006年であること、そしてその作品の舞台が2003年であることから、今が2014年であることを思うと驚くと話していたけれども、自分もちょうどそのようなことを考えていた。作品は変化しない(基本的には)。変化しないのだから、その作品を再び見た時間だけが過ぎていて驚くことがある。それは当たり前のことで、当たり前のことで驚き続けている最近。驚き続けているこの数日。日々のからだをとにかく運転することとは別の意識が働きはじめている。これもまた夏の終わりと秋の始まりに関わることなのか。


・どうして人は「○○の秋」とか不用意に口にするのか。「食欲の秋ー、物欲の秋ー」と言うかもしれない。「ファッションの秋」と言うことには一定の根拠があるのか。服を重ねて着る。「とりあえずTシャツ」をやめる。夏にはからだの境界が曖昧であるように思う。体温と気温が同じになって、意識も流れ出していく。文字通りの朦朧。思わず川に飛び込みたくなるだろう。人は「川に飛び込む映像」が好きだ。川に飛び込んだことがない人も「川に飛び込む」と聞くといくつかの場面をありありと想像することができる不思議。子供は橋から岩から川に飛び込む。ファッションの話だった。ファッションと秋の話だった。秋になって涼しくなると流出していた意識が一斉にからだに戻ってくるだろう。牧場に放たれていた牛が牛舎に呼び戻されるように。意識は再び自分のからだの境界を了解して、目は自分のからだの一点から風景を見る。風景の中にその風景よりも少しだけ高い体温を持った人間がいる。歩いたりする。そうして人は洋服について考えを始めるのかもしれない。


・佐藤真という人の『ドキュメンタリーの修辞学』という本を読んでいた。そして佐藤真の『SELF AND OTHERS』という映像を教材とするために見返す中で、牛腸茂雄という人の写真をしっかりと見たくなって図書館で借りてくる。何度か見ていたけれども、あらためて見ると、何とも言えない気持ちが残る。「怖い」とも思う。人を見つめる、ということをここまで徹底してしていたのかと思う。いつか見たときにはそのようなことは思わなかった。もっと「ふつうの」「ポートレート」だと思っていた。しかし今はとてもそんな風に思えなかった。牛腸茂雄という人が若くして(という言い方が適切なのかもわからないけれども36歳で)亡くなっているということを知っているからなのか。あるいは佐藤真の映画の中でその声を聴いてしまったからなのか。あの映画を観た人は誰もが「あの声」について語る。あの声を発話する空間を知っている、と思えるかどうか、もちろんその「知っている」は勝手な想像に過ぎないかもしれないけれども、しかしあの声をあちら側=OTHERSというだけではなく、自分自身だったかもしれない者が発した声だと聴くことができるか。あの声はネットワークから切り離された場所でのみ、発話されることができた。


・「見つめる」ことについてだった。写真を撮ろうとする相手、カメラを向けた相手が自分を見ていること。自分の存在を了解しているということ。カメラという機械の存在を了解していて、深く考えずともそこで定着されるイメージが残ることを許しているということ。そのような自分と他者が存在する空間を発生させることは、あまりにもどこにでもあり得る簡単な状態であると同時に、どこまでも深く困難な試みであるということを考える。そこでレンズに向けられた目線、顔、表情、をカメラを持たない私に向けられた「日常の何でもない一場面」などとは思うことができない。その目線、顔、表情は、カメラのレンズに向けられている。そしてその機械を操作する自分の存在を確かめるように、ときには監視するように、それでも許すように、思っている。その関係性が記録される。いや、そんな「関係性の記録」という言い方は不適当だ。ではなんと言えるか。断絶? 違うということ。「私とあなたは違うからだを持っている」ということ。作品は結晶のようなものであるとして(結晶であることは美しさということとは関係がない)その違い、その距離が、結晶の一断面ではないのか。


・そこまで書いて時間になったのでやめる。夏の終わりに見返したくなる映像がある。あるいは夏の終わりには写真を見たくなる。自分の知っている過去と自分の知らない過去、過去についての記録など。佐藤真の『SELF AND OTHERS』と青山真治の『路地へ』を続けて観てみるのも面白いかもしれない。