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  映像研究

4月の真ん中

・201904150943。朝起きて洗濯などしながら今。先週から今週にかけて新年度の様々な事柄。契約、継続、更新、立ち上げ、集会、会議、挨拶、再開、再会、別れ。目まぐるしいという言葉の中には「苦しい」が入っている。その苦しさを紛らわせるためには新しい服を見たり購入したりする必要があるのだろうか。新しい服を着ると確かに自分も更新されたように感じるから、他の多くの「物」以上に、心理に影響するのだろう。トニー滝谷の彼女のように。あるいは柴崎友香の小説にも服を見る場面でその心理が描かれていた。そういう時に服は商品とも日用品とも違った何かとして現れてくる。これらは服を買う口実だろうか。

 

・一難去って(去ってはいない)また一難(つまり増えた)。全然別々の組織で全然別の種類の難題が持ち上がる。降りかかってきたように感じるが、実際のところそれは自分が所属している組織の問題だからもちろん原因と自分は無関係ではない。そもそも無関係などほとんどない。全然違う事柄であるが面白いことに(面白くない)共通するのは、組織の機能不全に由来するということだ。自分ならばそれをカジュアルに「グルーヴ(の有無)」と言っているが(タイミング的に別の固有名詞を想起させつつ)、人の能力(という言葉は注意が必要だが)ではなく、人と人が協働して何かを生み出すその力が、組織自体を成り立たせている。素朴に言えば、足し算を継続するだけでは、ただ「飽き」と「疲弊」が訪れる。もちろん一人の人の中に静かな昂まりはあるにせよ。しかし集団を持続するためには何かしらの掛け算が継続しなければいけない、のだろうか。

 

・あらゆる組織や集団、関係には「力」がはたらいている。フーコーの訳の「権力」とはそうしたものだろう。機能不全になるとその「力」が見えやすくなる。その力は組織や集団を「立て直す」ことを目的とするが、しかし同時にほとんど暴力的あるいは犯罪的な行為が平気でなされるようにもなる。それらが一体となって絡まりながらカオスな瞬間を見せる。それは革命に似ているのだろうか。あるいはファシズムに。力は行為としては発話として、そして文字/制度として作り出される。カオスのようでありながら元々隠されていた縦方向の命令系統が見えてくる。誰が誰を「対象object」として「処理」しているのかがわかる。だから見ておこうと思う。組織や集団のすべての持ち物に小さなシールが貼られるようになった時、それはその場所新たな力がはたらくようになったサインかもしれない。見ることや聞くことから学ぶことはここにもある。

 

・年齢を重ねると日記が滞りがちになるのは「忙しい」ことのほかに「書けない」という理由がある。書けない。名詞も動詞も書けない。覚えていたい「見た」「聞いた」事柄もポエム化しなければ綴ることもできない。いや、別に書いたっていいのだけれども。書かない。それにしても「書かない」ことを戦略として選びながら、そもそも一体、何と戦っているのか。戦っているのか。